| 09-0023 | |
| ◆完璧 ◆カムイ ◆09年06月16日 20:14 | |
| 中国の戦国時代に、秦の昭襄王は、天下に二つとない宝石”和氏の璧”が 趙にあることを知って欲しくなり、15城と交換する申し入れをした。 心の中では、璧を奪うだけで約束は守らない気でいた。 使者となった 趙の臣りん相如は、璧をもって秦に行ったが、昭襄王と対等にわたりあって、 璧を無事にもち帰ったことが、言葉の由来とされる。 碁を打つ人は完璧に打つことを理想とし、失敗することを嫌う。 浮き沈み は世の習い、いつも緊張して長い人生を貫き通すことはできない。 ゆるみ、 失敗もあってよいのである。 張りつめた弦は切れやすい。 ゆるみがあって よい音が得られる。 と、吉岡一門と一乗寺下がり松の決闘をまえにした 宮本武蔵に、遊び里の吉野大夫が言っている。 碁には、よい手、悪い手、普通の手がある。 よい手は人に愛される。 悪い 手は憎まれるがユーモアがある。 普通の手を長く続ける人は、平均して高い 勝率を維持できる。 三様の手を打つ人は、豊かな囲碁人生を送るのである。 | |
| 09-0022 | |
| ◆『おくのほそ道 追跡行』 〜 みやこびとの憧れ、文知摺石 〜 ◆谷口 一 ◆09年06月08日 11:20 | |
| 鬼女伝説の黒塚から、奥州街道を北へ、「しのぶもぢ摺石」の文知摺観音に向かう。途中JR福島駅前にある芭蕉と曾良の像を見る。各地に芭蕉の像があるが、ここの二人は逞しく鼻筋も太くしっかりとした顔をしている。こういう像にも土地柄がでるのだろうか。 阿武隈川を文知摺橋で渡り、東へ数キロ行けば文知摺観音。ここでも芭蕉像が迎えてくれる。紅葉の頃はさぞやと思わせる山間のたたずまい。今は木々が芽吹きを待っている。 平安時代に都人の心をエキゾチック陸奥(みちのく)に駆り立てる発端の一つとなったのが、河原左大臣の歌である。 陸奥(みちのく)のしのぶもぢずり誰ゆゑに乱れそめにしわれならなくに この歌の作者河原左大臣は、紫式部『源氏物語』の主人公光源氏のモデルと言われている。嵯峨天皇の皇子。京の六条の邸宅河原院に住んでいたことから河原左大臣と呼ばれる。名は源 融(みなもとのとおる)。864年に陸奥の多賀城に按察使として赴任。(遥任という形だけで実際は赴任しなかったとも言われている)按察使は「あぜち」と読み奈良時代に置かれた地方監督官のこと。融は陸奥の地をよほど憧れ気に入っていたと見え、自宅に陸奥塩竃の浦を模した庭を作り、毎日難波から海水を運ばせ藻塩を焼いて楽しんでいたという。風雅これに極めり。当時は家も庭も大陸風が主流といわれる中、融の庭は白砂青松、和風の庭のルーツとも言われている。在原業平も紀貫之もこの融の庭を見物に来て歌を詠んでいる。 しほかまにいつか来にけむ朝なきにつりする舟はここによらなむ 在原業平 君まさで煙たえにし塩釜のうらさびしくも見え渡るかな 紀貫之 融には文知摺石(鏡石ともいう)にまつわるこんな伝説もある。 融が按察使として陸奥国に出向いていたおりに、信夫の里の文知摺石を訪ねる。その地で融は美しく気立てのやさしい里の娘虎女を見初める。やがて二人は愛し合うようになるが、いつまでも留まっているわけにはいかず、融は京に帰ることになる。別れを悲しむ虎女に融は再会を約束する。残された虎女は融恋しさのあまり、毎日文知摺石(鏡石)を麦草で磨き、融の面影が現れるのを待ち望む。そしてある日この石に融の顔を映し出すことができる。しかしこのとき既に虎女は精魂尽き果てており、融との再会を果たすことなく死んでしまう。 まだ虎女の死を知らぬ融が彼女に送った歌が最初にあげた、 陸奥のしのぶもぢずり誰ゆゑに乱れそめにしわれならなくに であるという。 私の心がこんなに乱れているのは誰でもない、あなたのせいですよ、そんな意味だ。百人一首にも入っているので知る人も多い。 融は死んでも忙しかったようで、住居河原院が他の人に渡ってからも、その辺りに亡霊になってちょくちょく出たようだ。そのことが今昔物語や江談抄にも書かれている。世阿弥の能『融』の主人公でもある。10円玉のデザインでおなじみの宇治の平等院は融の別荘であった。また嵯峨野の清涼寺は、融の山荘棲霞観(せいかかん)があった場所に、死後阿弥陀堂が建てられ棲霞寺と呼ばれ、のちに現在では国宝となっている釈迦如来像が安置され清凉寺となったものである。ここにひっそりと融の墓がある。平安の時代に規格外の人であったようだ。 「もぢ摺」というのは、布を石の上に当て草の葉や茎を押しあて摺り込んで染めたこの地方の染物で、その模様がもじり乱れていたので「もぢ摺」と呼ばれたらしい。その乱れ模様と恋の煩悩の乱れ、またここしのぶの里に「忍ぶ」をかけて流行の言葉となったようだ。現存する「もぢ摺石」は想像以上の巨石だ。染物に使ったのか、虎女が麦の葉で摺ったのか今はもうわからない。ただ、芭蕉もこの石を見て遠い昔に思いを馳せた。その同じ石を見ていることの幸せ。 ・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・ 『おくのほそ道』 松尾芭蕉 安積山、信夫の里 (前回と重なるため、前半は略) あくれば、しのぶもぢ摺の石を尋ねて、忍ぶのさとに行く。遥か山陰の小里に、石 半ば土に埋れてあり。里の童の来たりて教えかる、「昔は此の山の上に侍りしを、往来 の人の麦草をあらして此の石を試み侍るをにくみて、此の谷につき落せば、石の面下 ざまにふしたり」と云ふ。さもあるべき事にや。 早苗とる手もとや昔しのぶ摺 | |
| 09-0021 | |
| ◆棋力の四季 ◆カムイ ◆09年05月18日 22:13 | |
| 棋力にも、春夏秋冬がある。 冬、伸び行く力を養い、耐えるとき、 春、巣立ち行く鳥の如く、夏、今盛りなり、力強く、秋、実り多く、 豊かな収穫を。 自己棋力の四季を知ることも大事である。 | |
| 09-0020 | |
| ◆『おくのほそ道 追跡行』〜白河の関を越え、奥州須賀川へ〜 ◆谷口 一 ◆09年05月18日 11:14 | |
| 白河の関を越えて、芭蕉いよいよ奥州の地に入る。 曾良の旅日記では、まず関山満願寺を訪れているが『奥の細道』本文にはその記載はない。この関山が白河の関跡だという説がある。実は白河の関跡は、芭蕉の時代にもあちこちに候補地があって特定されていなかった。歌枕を行く芭蕉にはきっと面白くなかったであろう。 ともあれ関山を後に、福島県の母なる川、阿武隈川を渡る。現在、阿武隈川に架かる橋は福島県内だけで80以上あるという。ただ江戸時代までは阿武隈川に橋はひとつもなく、すべて渡し舟がその任を担っていた。芭蕉は福島県内だけで、七度渡しを利用している。 待望の奥州に入った芭蕉は、連なる四方の山々を見渡しながら須賀川へと足を進めている。その途中、「かげ沼」を通過する。「かげ沼」が特定の沼をさしているのか、その辺りの地域をさしているのかは、はっきりとはわかっていない。ただ、芭蕉も「空曇りて物影うつらづ」と書いているように、蜃気楼のようなものが見える地域であったらしい。江戸の文献にもそういった記述がある。残念ながら芭蕉通過時には見えなかったようだが。 また「かげ沼」は「鏡沼」とも呼ばれ、鎌倉時代の哀しい伝説が残っている。 和田平太胤長(たねなが)は、時の執権・北条時政の悪政を改めんと謀反を企る。しかし、策謀は漏れ、胤長は奥州へ流される。鎌倉に残された胤長の妻・天留(てる)は、夫の跡を追って奥州へ向かう。奥州にたどりついた天留を待っていたのは、夫の非業の死。悲嘆した天留は、生きる望みはないと沼に身を投げる。胸に抱いていた鏡はずっと沼のそこから光り輝いていた。よって「鏡沼」という。現在沼はわずか直径4mほど、辺りは小公園になっている。 芭蕉は須賀川に一週間滞在している。よほど居心地が良かったのであろう。もちろん友人の相楽伊左衛門こと等躬がこの地の駅長であったことによろう。芭蕉より六歳年長で、俳人でもあり筆も立ったようだ。江戸でも深い親交があった。長松院に等躬の句碑がある。 “あの辺はつく羽山哉炭けふり”やさしい人柄が見える句だ。 その等躬の屋敷近くにひっそりと世間から隔たり、隠れ住んでいる可伸という僧がいた。芭蕉は心ひかれて会っている。その立ち寄りをきっかけに、可伸、心ならずもその後は時の人となり、庭先の栗の木も一躍須賀川の名所になってしまった。 等躬の著した「伊達衣」にそんな状況にとまどったような可伸の句文がある。 「予が軒の栗は、更に行基のよすがにもあらず、唯実をとりて喰のみなりしを、いにし夏、芭蕉翁のみちのく行脚の折から一句を残せしより、人々愛る事と成侍りぬ。」 もちろん、その一句が“世の人の見付けぬ花や軒の栗”である。世から隠棲して、静かにつつましく暮らしている人物に芭蕉は強くひかれるようだ。 可伸の庵跡には今も栗の木が植わっている。「唯実をとりて喰のみなり」の可伸の栗、今は誰が拾っているのだろう。 須賀川には芭蕉ゆかりの史跡も多く、江戸の頃から多くの俳句ファンが訪れたという。今も観光名所には必ず俳句ポストがあり年間最優秀句の表彰もあるようだ。北の俳句の街といえる。 芭蕉は須賀川での七泊八日にわたる滞在で、十分に英気を養った。四月二十九日(陽暦六月十六日)郡山に向けて出発する。途中、阿武隈川本流にある乙字の滝を見物する。落差は小さいが川幅いっぱいの滝は100mもあり、ミニサイズのナイアガラだ。水かさの多い時期はかなりの迫力だろう。300年前に芭蕉、曾良はどんな思いでこの滝を眺めたのだろう。追っかけも、日が経つにつれて、二人の背のかすかな影が見えてくるような時がある。落ちて巻いて流れいく水は、同じ繰り返しのようだけど見ていてまったく見飽きない。ずっと流れている。 ・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・ 『おくのほそ道』 松尾芭蕉 須賀川 とかくして越行くままに、あふくま川を渡る。左に会津根高く、右に岩城・相馬・ 三春の庄、常陸・下野の地をさかひて山つらなる。かげ沼と云ふ所を行くに、今日 は空曇りて物影うつらず。 すか川の驛に等窮というものを尋ねて、四五日とどめらる。先ず、「白河の関いか にこえつるや」と問ふ。「長途のくるしみ身心つかれ、且は風景に魂うばはれ、懐旧 に腸を断ちて、はかばかしう思ひめぐらさず。 風流の初やおくの田植うた 無下にこえんもさすがに」と語れば、脇・第三とつづけて三巻となしぬ。 此の宿の傍に、大きなる栗の木陰をたのみて、世をいとふ僧有り。橡ひろふ太山 もかくやと、閧ノ覚えられて、ものに書付け侍る。其の詞、 栗といふ文字は西の木と書きて西方 浄土に便りありと、行基菩薩の一生杖 にも柱にも此の木を用ひ給ふとかや。 世の人の見付けぬ花や軒の栗 ・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・ | |
| 09-0019 | |
| ◆『おくのほそ道 追跡行』 殺生石、遊行柳、西行の歌枕を行く ◆谷口 一 ◆09年05月11日 12:19 | |
| 黒羽からは北東方向に那須湯本を目指す。黒羽を出てすぐに道の駅「那須与一の郷」が右手に見えてくる。扇形に作ってある屋根の形に、源平の戦いの勇者の面影が偲ばれる。 1185年2月19日、屋島の合戦の際、源氏方の那須与一が平家方の準備した艘上の扇の標的を、馬上海中から射抜いたという話は、平家物語の様々なエピソードの中でも多くの人が記憶するところであろう。与一が弓を引き矢を射る寸前に「南無八幡大菩薩、別してはわが国の神明、日光権現、宇都宮、那須湯泉大明神、願はくはあの扇の真中に射させてたばせ給え」(平家物語)と唱えた下野の国の神社が、ここ大田原市にあるのだ。 奥の細道の本文にも「『与一扇の的を射し時、(中略)ちかひしも此の神社にて侍る』と聞けば、感慨殊にしきりに覚えられる。」と芭蕉は書いている。与一が矢を放ったのは、芭蕉の時代から500年前のことである。その芭蕉を300年後のわれわれが追っていることになる。物事を書き残し、伝えていく文字の力の偉大さをあらためて感じる。 那須岳方向を目指して道を上っていけば、やがて那須湯本に至る。 那須湯本には、「石の毒気いまだほろびず」と芭蕉がながめた殺生石が今も残っている。那須岳の丘陵が湯本温泉街にせまる斜面の湯川にそったところにある。今も毒気はほろびずで、硫化水素ガスが自噴しているという。近づくことはできない。 殺生石にまつわる伝説には妖気が満ちていてアニメチックで楽しい。 平安の昔、帝の愛する妃に「玉藻の前」という絶世の美女がいた。だが、この美女は天竺(インド)、唐(中国)を経て飛来してきた九尾の狐の化身であった。帝は日に日に衰弱し床に伏せるようになる。不思議に思った陰陽師の阿部泰成が美女の正体を九尾の狐と見破り、調伏させたが。 この狐、那須野に逃れたが、上総介広常と三浦介義純が追いつめ退治したところ、巨大な石に化身し毒気をふりまき、ここを通る人や家畜、鳥や獣に被害を及ぼした。やがて、源翁(玄翁)和尚が一喝すると石は破壊し、三ヶ所に飛んでいった。そのひとつが殺生石であるという。芭蕉の言う「毒気いまだほろびず」はここからきている。 那須湯本からまた大きく南東に下ってくると、奥州街道の宿場町であった芦野の里がある。ここに謡曲「遊行柳」で知られる柳が、今も田の中にある。長い年月、大切に植え継がれてきたものであろう。柳の近くには小さな清流が気持ちよく流れている。裏の社の狛犬の顔がいい。 西行が「道のべに清水流るる柳かげしばしとてこそ立ちどまりつれ」(新古今集)と詠んだと伝えられる柳である。西行が東大寺の再建の勧進を奥州藤原氏に行うために陸奥に下った時のことか。西行はこの旅の途中、鎌倉で源頼朝に会ったことが『吾妻鏡』に記されている。 西行は奥州藤原氏の遠戚にあたる。鎌倉に立ち寄ったのは、頼朝の藤原氏に対する戦略を探る目的があったのではないかと思う。また、藤原秀衡を頼りに奥州に逃れた義経の動静も深く関係したであろう。西行この時六十九歳。頼朝が藤原氏遠戚の西行を切っていてもおかしくはない。しかし頼朝はそうはしないで時を待つ。奥州藤原氏当主秀衡もまた西行と同年代であった。頼朝の判断は吉と出る。秀衡は翌年没し、その子康衡は、父秀衡の遺言を守らず義経を討つ。義経は待仏堂に篭り自害。享年三十一歳。兄頼朝の策が当たったのだ。 やがて頼朝は奥州をも支配下に入れ、武家政権を創設する。 頼朝が奥州への途上の西行を切っていたとしたら、「遊行柳」は存在しなかった。そして、西行の足跡のない奥州へ芭蕉は旅立たなかったろう。松尾芭蕉『おくのほそ道』も存在してなかったことになる。 田一枚 植えて立去る 柳かな この芭蕉の句は重い。 ・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・ 『おくのほそ道』 松尾芭蕉 殺生石、遊行柳 是より殺生石に行く。館代より馬にて送らる。此の口付のおのこ、「短冊得させよ」と乞う。やさしき事を望み侍るものかなと、 野を横に馬牽きむけよほとどぎす 殺生石は温泉の出づる山陰にあり。石の毒気いまだほろびず、蜂、蝶のたぐひ真砂の色の見えぬほどかさなり死す。 又清水ながるるの柳は、芦野の里にありて、田の畔に残る。此の所の群守戸部某の、「此の柳みせばや」など、折々にの給ひ聞え給ふを、いづくのほどにやと思ひしを、今日此の柳のかげにこそ立ちより侍りつれ。 田一枚植えて立去る柳かな ・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・ | |
| 09-0018 | |
| ◆『おくのほそ道 追跡行』〜日光から那須野を黒羽へ〜 ◆谷口 一 ◆09年04月15日 10:50 | |
| 日光から北東に那須野を辿れば、黒羽に行き着く。那須野は那須山麓の広野をいい、東西29キロ、南北32キロにわたる。現在は東北自動車道も東北新幹線もここを駆け抜けており、芭蕉の言う「是より野越えにかかりて〜」というような風情はさらさらない。縦横に大小の道路が走っている。 車を黒羽方向へ走らす。進むべき方向に伸びている道を進むわけだ。芭蕉の「直道をゆかんとす」である。カーナビもなければ、地図も持たない。太陽と遠くの山々が頼りのドライブだ。 芭蕉も本街道を行かず近道をとっている。野の遥かかなたに村をみとめ、そこを目指してまっすぐに歩を進めている。途中雨になり日も暮れ、農家に一夜を借りる。翌日また歩き出すが、縦横に分かれ走る野道に途方にくれる。けもの道も混じっていたであろう。広大な那須野の原で芭蕉たちはほとほと困り果てる。現代もまた道を一本違えると同じように難儀する。 日光北街道を矢板に出て、4号線を少し北上し、大田原に道をとれば黒羽に行き着く。だが、箒川に架かる「かさね橋」を渡りたくて、やや東にハンドルをきったものの、行けども橋はなく、頼りのお日様も雲に隠れる。南東に道を取りすぎたようで、幾度か迷った末に294号に突き当たってしまう。仕方なくまた来た道を大きく戻る。ようやく目指す橋を見つけた時には小雨も降ってきた。橋の近辺には車を停めるスペースがない。強引にガードレールの間に割り込んだらガリガリと車体を擦る。急ぎ幾枚か写真を撮り、とにかく黒羽に向かう。 見渡す限りの野原で途方にくれていた芭蕉は、この「かさね橋」の近辺で草を刈っている男に会い、馬を借りている。馬は引き手もいないのに芭蕉を乗せてもくもくと歩く。草刈りを手伝っていたのか、子供らが馬の後について走ってくる。聞けば一人は小娘で、名を「かさね」という。 曾良の句がある。 かさねとは八重撫子の名成るべし 箒川に架かる「かさね橋」の橋柱には、馬に乗った芭蕉と曾良、後を追う二人の子供のレリーフがある。芭蕉は「かさね」という名がよほど心に残り、旅を終えたあと、知人にこんな文を送っている。 ・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・ みちのく行脚の折、いずれの里にかあらむ、小娘の六つばかりなるをおぼしき、 いとささやかに、えもいわず、をかしけるを 「名をいかにいふ」 と問えば、 「かさね」と答う。いと興ある名なり。都の方にては稀にもきゝ侍ざりしに、 いかに伝て何をかさねといふにあらん。「我子あらば、この名を得させん」〜 ・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・ やがて人里に入り、芭蕉は馬の借り賃を鞍壺に結び付けて馬を帰す。馬はとぼとぼと戻っていく。 黒羽に着いた芭蕉は歓待を受け、この地に二週間ほどとどまることになる。近郷の名所旧跡をまわり、江戸で親交があった仏頂和尚に縁のある雲巌寺にも参詣している。「山はおくあるけしきにて、谷道遥かに、松・杉黒く、苔しただりて〜」とあるが、その自然は現在も変わっていない。いやむしろ三百年の歳月が木々を巨木に仕上げて、寺を囲む森をより深くしている。寺は禅寺らしく楚々として人の気配をまったく感じない。静かだ。仏頂和尚の山居跡に続く道は今は塞がれている。 夕暮れの山道を黒羽の町に戻る。 黒羽は那珂川のやな漁で有名な町だ。鮎の季節にぜひ再訪したい。 芭蕉がここに滞在した頃は、鮎のはしりの時期だ。ほとんど食べ物のことを書き残していない芭蕉だが、実は相当の食通だったとわかっている。鮎三昧の日々であったろう。蓼はまだ少し早いが。 ・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・ 『おくのほそ道』 松尾芭蕉 那須野 那須の黒ばねと云ふ所に知人あれば、是より野越えにかかりて、直道をゆかんとす。遥かに一村を見かけて行くに、雨降り日暮るる。農夫の家に一夜をかりて、明くれば又野中を行く。そこで野飼の馬あり。草刈るおのこになげきよれば、野夫といへどもさすがに情しらぬには非ず。「いかがすべきや。されども此の野は縦横にわかれて、うゐうゐ敷き旅人の道ふみたがえん、あやしう侍れば、此の馬のとどまる所にて馬を返し給へ」と、かし侍りぬ。ちいさき者ふたり、馬の跡したひてはしる。独りは小姫にて、名をかさねと云ふ。聞きなれぬ名のやさしかりければ、 かさねとは八重撫子の名成るべし 曾 良 頓て人里に至れば、あたひを鞍つぼに結付けて馬を返しぬ。 | |
| 09-0017 | |
| ◆孔明 ◆カムイ ◆09年04月16日 10:15 | |
| レッドクリフ、赤壁のことである。 三国志の中で最大の山場、赤壁の 戦いは、中国戦史の中でもひときわ目立つ。 私の好きな人物、孔明が 世に名を表す初舞台であった。 孔明はもとからの戦略家ではない。 世の喧騒から離れた庵に住む学者であった。 その学識を見込まれ、 三顧の礼をもって、蜀の軍師として迎えられた。 蜀はまだ小国、軍備 も十分でない。 情に厚い主君劉備玄徳は、民を守るためには、敗戦も いとわない。 苦しい戦いを孔明は智略でしのぐ。 魏の曹操は一代の英雄、百万と称する大軍を率いて南下してくる。 蜀は呉と同盟して迎え撃つ。 双方合わせても十万余の軍勢である。 呉の大都督、周ゆは孔明の策を入れた。 智者を知るものは智者である。 船戦、天機を計った火計の策は、魏の大軍を壊滅させた。 三江の大 殲滅戦。 魏百万の軍勢は、一夜にして消滅したのである。 長躯、 洛陽に逃げ帰った曹操は、世に恐るべき敵がいることを知った。 蜀は次第に国らしくなり、天下三分の時代がくる。 孔明は宰相となり、 内政もよく治めた。 あるとき、孔明が愛していた青年武将、馬しょく が戦略を誤り、敗戦を招いた。 孔明が与えた軍法は死罪であった。 ”泣いて馬しょくを斬る。” 公事に私情を入れない公正さ。 物語の中の孔明は、私の理想像を画く。 人は理想像をもち、自分もかくありたいと願う。 三国志著者と読者私が、共演で演ずる劇は私の人生観の中にある。 | |
| 09-0016 | |
| ◆スモールレッドクリフ ◆長良川 ◆09年04月09日 13:55 | |
| 初めて聞いたとき、レッドクリフとは何のことやらよくわからなかった。何回もこの言葉を目にしたり耳にしたりして、ようやくその意味がわかった。そして、映画「レッドクリフ」の第一部を見た。人により好き嫌いはあると思うが、この映画のいささか過剰なカンフーアクションはかえって歴史ドラマの壮大さをそこなっているように思えてならない。それにもかかわらず、まもなく公開される第二部もまた見ることになるだろう。 話は変わるが、日本にもレッドクリフがあることをご存じだろうか。日本のものは規模が小さいので、これをスモールレッドクリフというのだが、それはどこなのだろうか。実は、たまたま50年前の高校時代の漢文の教科書を読んでいたら、スモールレッドクリフという言葉がでてきたのである。その場所というのは、何を隠そう、東京のお茶の水のことなのである。私がでたらめを言っているのではない証拠として、教科書に載っていた江戸時代の漢学者の文章をそのまま掲載しておこう。 茶渓秋月(茶渓ノ秋月) 鹽谷世弘 渓慶長中所鑿即神田川也。水道橋以東、崖高渚曲、老木槎牙。 中天心則有山高月小、水落石出之景。予呼之曰小赤壁。 渓ハ慶長中鑿チシ所ニシテ、即チ神田川ナリ。水道橋以東ハ、 崖高ク渚曲リ、老木槎牙。月天心ニ中スレバ則チ山高ク月小ク、 水落チテ石出ヅル之景有リ。予之ヲ呼ンデ小赤壁ト曰フ。 この文章に出てくる茶渓とはお茶の水を流れる神田川のことである。今でも、中央線の車窓から眺めると、お茶の水から水道橋にかけて神田川は深い切れ込みの断崖絶壁になっており、スモールレッドクリフの面影をしのぶことができる。しかしこの断崖絶壁は自然にできたものではなく、慶長年間に人手によって切り開いたものだということが、「渓ハ慶長中鑿チシ所ニシテ」という文章からうかがうことができる。 ところでそこをなぜお茶の水というのか、その由来もついでに書いておこう。以下は、JR御茶ノ水駅近くの「お茶の水」という石碑からの引用である。 「慶長の昔、この邊り神田山の麓に高林寺という禅寺があった。ある時寺の庭より良い水が湧き出るので将軍秀忠公に差し上げたところお茶に用いられて大変良い水だとお褒めの言葉を戴いた。それから毎日この水を差し上げる様になりこの寺を お茶の水高林寺 と呼ばれ、この辺りをお茶の水というようになった。」 しかしその井戸は、享保の大洪水で神田川の川幅を広げた時に川に没したとされる。 | |
| 09-0015 | |
| ◆花まつり ◆カムイ ◆09年04月08日 12:18 | |
| ちはやふる 卯月八日は 吉日よ かみさげ虫を 成敗ぞする 作州宮本村の七宝寺は、潅仏会に参詣する人で、賑わっていた。 寺の かかり人お通は、五色の紙にまじないの歌を書いてわたしている。 家 の中にこの歌を貼っておくと、虫除けや悪病よけになると、この地方で は言い伝えている。 吉川英治氏の大作、宮本武蔵の一巻にある風景である。 子供の頃、お釈迦様の日に甘茶を飲んだことを思い出した。 古いしきたりが、行われなくなってゆくことは、さびしい思いがする。 子供の頃に読んだ小説が、いつまでも記憶に残るのは、枕詞ちはやふる が、ここで使われているのを、不思議に思ったことによる。 | |
| 09-0014 | |
| ◆百代の過客 ◆長良川 ◆09年03月31日 14:55 | |
| 五十年の前の高校時代の教科書が実家の本棚に残っていたので、紙が茶色くなった漢文の教科書を引っ張り出して拾い読みしていたら、たまたま「百代の過客」という言葉がでてきた。待てよ、この言葉はどこかで聞いた覚えがある、そうだ、たしか「奥の細道」の冒頭に出ていたのではないかと思い、長文エッセイにただいま谷口氏が連載中の「おくのほそみち・追跡行」を参照して見るも、「百代の過客」という言葉はどこにも見あたらない。どうやら、谷口氏は「奥の細道」の書き出しの部分をはしょったようだ。そこで、インターネットで検索してみると、ちゃんと出ているではないか。 「月日は百代の過客にして、 行きかふ年もまた旅人なり。」 それにしても、このような調べものをする場合、インターネットは本当に便利だ。たいていの古典は、原文テキストをコピーしてくることができるので、いちいち書き写したり入力しなおしたりしなくてすむ。 さて、芭蕉のような俳人の元祖ともいえる人が、俳諧とは正反対とも言うべき漢文の「百代の過客」という言葉を知っており、しかもそれを自分のものとして消化し、自分の文章の中に取り入れて見事な表現をしているのは驚きである。当時の教養人は、たいていの漢籍には通じていたのであろうか。 ところで、この「百代の過客」が出ている原典は、かの有名な李白が書いた「春夜宴桃李園序」という短い文章である。ふつうは、「奥の細道」から「百代の過客」という言葉を媒介として「春夜宴桃李園序」に接するのが順序であるが、今回の私の場合はその順序が逆になってしまった。それはともかくとして、「春夜宴桃李園序」も「奥の細道」の序文におとらず名文である。そこで、以下にこの和漢の名文どうしを対比して示しておくことにする。 「春夜宴桃李園序」 李白 夫天地者萬物之逆旅、光陰者百代之過客。 而浮生若夢。為歓幾何。古人秉燭夜遊、 良有以也。況陽春召我以煙景、大塊假我 以文章。會桃李之芳園、序天倫之楽事。 群季俊秀、皆爲惠連。吾人詠歌獨慚康楽。 幽賞未已、高談轉清。開瓊筵以座花、 飛羽觴而酔月。不有佳作、何伸雅懐。 如詩不成、罰依金谷酒數。 夫レ天地ハ萬物ノ逆旅ニシテ、光陰ハ百代ノ過客ナリ。 而シテ浮生ハ夢ノ若(ごと)シ。歓ヲ為ス幾何(いくばく)ゾ。 古人燭ヲ秉(と)リ夜遊ビシハ、良(まこと)ニ以(ゆえ)有ルナリ。 況(いわん)ヤ陽春我ヲ召クニ煙景ヲ以テシ、大塊我ニ假スルニ 文章ヲ以テスルヲヤ。桃李ノ芳園ニ會シテ、天倫之楽事ヲ序(の)ブ。 群季ノ俊秀ハ、皆惠連爲(た)リ。吾人ノ詠歌ハ獨リ康楽ニ慚(は)ヅ。 幽賞未ダ已(や)マズ、高談轉(うたた)清シ。瓊筵(けいえん)ヲ 開キテ以テ花ニ座シ、羽觴(うしょう)ヲ飛バシテ月ニ酔フ。 佳作有ラ不ンバ、何ゾ雅懐ヲ伸ベン。如(もし)詩成ラ不ンバ、 罰ハ金谷ノ酒數ニ依ラン。 「奥の細道」序 芭蕉 月日は百代の過客にして、 行きかふ年もまた旅人なり。 舟の上に生涯を浮かべ、 馬の口とらへて老いを迎ふる者は、 日々旅にして旅を住みかとす。古人も多く旅に死せるあり。 予も、いづれの年よりか、片雲の風に誘はれて漂泊の思ひ やまず、 海浜にさすらへ、去年の秋、江上の破屋にくもの 古巣を払ひて、 やや年も暮れ、春立てる霞の空に、白河の 関越えんと、 そぞろ神の物につきて心を狂はせ、 道祖神の 招きにあひて取るもの手につかず、ももひきの破れをつづり、 笠の緒付け替へて、三里に灸据うるより、松島の月まづ心に かかりて、住める方は人に譲り、杉風が別墅に移るに、 草の戸も住み替はる代ぞ雛の家 | |
| 09-0013 | |
| ◆『おくのほそ道 追跡行』〜江戸を真北に三十五里〜 ◆谷口 一 ◆09年03月12日 11:13 | |
| 日光街道には二十一の宿場がある。 江戸日本橋を出て千住が初宿で、草加、越ヶ谷、粕壁、杉戸、幸手、栗橋、中田、古河、野木、間々田、小山、新田、小金井、石橋、雀宮、宇都宮、徳次郎、大沢、今市そして最後が日光の門前町、鉢石。総距離は日本橋から百四十三km。宇都宮までは奥羽街道と併用する。 日光は江戸からほぼ真北。夜なら北極星を頼りに歩けば無事到着する。それほど真北にある。そこに東照宮があり、徳川家康が祀られている。 家康は遺言を残している。 「遺体は久能山(静岡)におさめ、(中略)一周忌が過ぎたならば、日光山に小さな堂を建てて勧請し、神としてまつること。そして、八州の鎮守となろう」と。 家康の言う小さな堂は、世界遺産になるほどの豪華絢爛荘重となり、日光に至る杉並木は、総延長三十七キロ、一万三千本の杉の巨木が現存する世界一の並木道として、ギネスブックに登録されている。 遺言の小さな堂が、どうしてこうも壮大なものになったか。家康のブレーンであり、二代秀忠、三代光秀にも仕えた政僧天海の力が大きく働いたと思われる。この天海、前半生は不詳で謎が多い。死んだはずの明智光秀説もある。稀な長寿で百八歳で没したという。 日光社参が制度化されると、各藩の大名達は参詣はもとより、寄進・奉納と莫大な費用を日光につぎ込むことになる。それは各藩の力をそぐことであり、徳川家安泰に大きく寄与したと思える。家康の遺言通り東照宮はまさに鎮守となったのである。 元禄二年三月二十七日に深川を出立した芭蕉は四月一日にここ日光に入っている。元禄二年三月は小の月で三十日はなかった。よって出立から四日目が日光となる。平均すれば一日三十数キロの行程である。草加では、「若し生きて帰らば」とか「痩骨の肩にかかれる物、先ずくるしむ」とか、嘆きの声が聞こえてくるが、どっこいしっかりと歩を進めているのがわかる。 木曾路から信濃国を歩いた『更科紀行』、木曽路・甲州路の『野ざらし紀行』、吉野山に遊び、須磨・明石の『笈の小文』を考えれば、旅の人、旅慣れた芭蕉の姿が見えてくる。それは一般的によく目にする、どこか隠居風の「芭蕉図」とは異なり、腰の安定した、無駄な動きのない歩き、小股で、痩身、そんな芭蕉翁の姿だ。 『奥の細道』はただ事実を書き並べているのではなく、いたるところに文筆家芭蕉としての脚色がある。だから草加までの嘆きの声も、『奥の細道』全体の序としては必要であり、やや誇張されているように感じる。実際は芭蕉はそんな柔ではなかったろう。そうでなかったら五十歳を前にしてこれほど広大な旅を計画しなかったはずだ。ただ、この旅にも、芭蕉、曾良にも謎が多いのは確かだ。謎の一つ、芭蕉は深川出立を二十七日としているのに、曾良の随行日記では二十日になっている。この七日間の差はなんなのだろう。 どうであれ、旅するうちに芭蕉は本来の歩幅に戻り、ひたすら日光街道を北進した。ただ現在のように杉並木にまだ巨木はなく、今の暦で言えば5月の風に気持ちよく伸びる若木が多かったであろう。緩やかに延々と続く坂を登りきり、二人は東照宮に参詣している。 さて、そこで芭蕉が「結構」と言ったかどうかは曾良の日記にもない。 ・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・ 『おくのほそ道』 松尾芭蕉 日光山 卯月朔日、御山に詣拝す。往昔此の御山を二荒山と書きしを、空海大師開基の時、日光と改め給ふ。千歳未来をさとり給ふにや。今此の御光一天にかかやきて、恩沢八荒にあふれ、四民安堵の栖穏やかなり。猶憚り多くて筆をさし置きぬ。 あらたうと青葉若葉の日の光 黒髪山は霞かかりて、雪いまだ白し。 剃り捨てて黒髪山に衣更 曾良 曾良は河合氏にして、惣五郎と云えり。芭蕉の下葉に軒をならべて、予が薪水の労をたすく。このたび松しま、象潟の眺め共にせん事を悦び、且は羈旅の難をいたはらんと、旅立つ暁髪を剃りて墨染にさまをかえ、惣五を改めて宗悟とす。仍つて黒髪山の句有り。「衣更」の二字、力ありてきこゆ。 廿余丁山を登つて瀧有り。岩洞の頂より飛流して百尺、千岩の碧潭に落ちたり。 岩窟に身をひそめ入りて滝の裏よりみれば、うらみの瀧と申伝え侍る也。 暫時は瀧に籠るや夏の初 ・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・ | |
| 09-0012 | |
| ◆わかるまで読む ◆カムイ ◆09年03月10日 12:31 | |
| アインシュタインは、ユダヤ系ドイツ人であった。 小学生の頃、数学が好きで、 おじいさんから高等数学の本を借りて読んでいた。 ”坊や、そんな難しい本を 見てわかるの。”と人に聞かれたとき、”僕はわかるまで読むのだ。”と答えた という。 ドイツ国内で、ユダヤ系は恵まれなかった。 彼の学歴は、専門学校 までである。 だが、独力で培った学力は、大学卒を超えていた。 スイスの 大学で教授をしていたこともある。 ナチス政権下、ますます住みづらくなり、 アメリカへ移住した。 アメリカの学界は暖かく迎えてくれた。 光量子説、 ブラウン運動の理論、特殊相対性理論、一般相対性理論を主唱した。 これらの 理論は仮説(条件)理論であるけれど、理論体系がすばらしく、受け容れられた。 恵まれなかった健気な少年は、世界一の学者になり、ノーベル賞も受けた。 | |
| 09-0011 | |
| ◆『おくのほそ道 追跡行』 旅立ち、深川から千住へ ◆谷口 一 ◆09年03月05日 10:47 | |
| 元禄二年弥生二十七日。今の暦でいうと1689年5月16日。この日、芭蕉は総行程2400kmの旅、後に『おくのほそ道』としてまとめられる旅の第一歩を踏み出す。 早朝。有明の月が空に残っている。月齢26.3。 深川の庵から二歩三歩踏み出した芭蕉、逆三日月を見上げ、西に幽かな富士を望む。 朝食は粥と香の物だろう。昨夜は遅くまで弟子たちと別れを惜しんだ。酒も入り、曾良はかなり酔ったかもしれない。この時代の旅、生きて帰れる保証はない。 同行の曾良は諏訪の人、この旅の27年前1662年に銘酒『真澄』の宮坂酒造は上諏訪で開業している。曾良も宮坂の酒を飲んだか。曾良の墓は宮坂酒造から目と鼻の先に現存する。 カモメが鋭く啼いて、やがて芭蕉、舟の上の人になる。 現代では、深川あたりから隅田川を上っていくとつぎつぎと橋が出現する。新大橋、両国橋、蔵前橋、厩橋、駒形橋、吾妻橋、言問橋、桜橋、白髭橋、水神大橋そして千住大橋と。途中、高速道路や鉄道が通る橋もある。 しかしこの日、芭蕉が舟上から見ることができた橋は二つ。1659年に架けられた両国橋と、ずっと上流の1594年に架けられた千住大橋のみ。 昔は戦略上、川に橋を架けることは稀だった。橋の代わりに隅田川にもいたる所に渡しがあり、両岸を小舟が行き交った。汐入の渡し, 橋場の渡し, 今戸の渡し, 竹屋の渡し, 山の宿の渡し, 駒形の渡し, 御厩の渡し, 富士見の渡し, 御蔵橋の渡しなど。 これらの渡しも橋が増えるに従い姿を消していった。最後に残った隅田川の渡しは、最下流の佃の渡し。これも昭和39年東京オリンピックの年の8月に、320年の歴史を閉じている。 大量の物資も川を上り、川を下った。江戸時代の水上交通は今では想像もできないほど活況を呈していた。現代のトラック輸送が当時の水上輸送といえる。 320年前に芭蕉が深川より千住目指して乗船した小舟も、朝早くからさまざまな物資を積んだ大小の舟に行き交ったと思われる。これらの舟が芭蕉の目に入ったかはわからない。芭蕉が舟上から望んで思いを巡らせていたのは、桜の頃の上野や谷中。高い建物もない当時、隅田川の舟の上から青葉若葉の上野の山がはっきりと見えたろう。直線距離で2kmほどだ。 遠境辺土に旅立とうとする芭蕉は、また江戸の桜を見ることが出来るのかと、はなはだ心細い思いだった。春の終わりの心地よい川風をうけても、浮いた気持ちは微塵もない。 深川から隅田川を8キロほど上ると千住大橋。橋のたもとの船着場で芭蕉は陸に上がった。 千住は奥州街道、日光街道の最初の宿場。東北への入口であり、東北からの旅人にとっては、江戸の表玄関であった。現代でもここを国道4号線が走る。日本橋から青森市まで延長856km、日本一長い国道として関東と東北の大動脈の役割を担っている。 ここでいよいよ親しい知人たちとも別れ、墨染めの修行僧のいでたちで、芭蕉は曾良と二人北へと踏み出す。すたすたと。すたすたと。歩き慣れた後姿が小さくなっていく。 鳥も啼き、魚も泪した。 芭蕉は一度も振り返らなかった。曾良もまた。 ・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・ 『おくのほそ道』 松尾芭蕉 旅立ち 弥生も末の七日、明けぼのの空朧々として、月は在明けにて光おさまれる物から、不二 の峰幽にみえて、上野、谷中の花の梢、又いつかはと心ぼそし。むつましきかぎりは宵よりつどいて、舟に乗りて送る。千じゅと云う所にて船をあがれば、前途三千里のおもひ胸にふさがりて、幻のちまたに離別の泪をそそぐ。 行春や鳥啼き魚の目は泪 是を矢立の初めとして、行く道なをすすまず。人々は途中に立ちならびて、後かげのみゆる迄はと見送るなるべし。 ・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・ | |
| 09-0010 | |
| ◆国技・4 ◆カムイ ◆09年03月20日 07:49 | |
| 十一代将軍家斎は芸能が好きであった。 在位50年、妻妾の数が多く、実子が52人も いたという。 私生活面ではゆるんだところもあるが、文化面での業績がある。 相撲は、初代横綱明石以来150年間に、2人の横綱をだしただけであったが、名力士 谷風、小野川の台頭で、本所回向院の勧進相撲が人気を集めていた。 寛政2年 (1790年)に江戸城内吹上御苑で、将軍の上覧相撲が行われた。 この時初めて 綱を締めた最高力士の土俵入りが行われた。 それまでの横綱は、寺社建立の地鎮祭に、 最高力士が身を清めるため綱を締め、力強い四股を踏んで、土地を踏みしめる行事で あった。 横綱土俵入りは、後に、8代横綱不知火、10代横綱雲竜、によって型が つくられるが、初めての経験の谷風、小野川は立派に務めた。 このため、4代横綱の 谷風を初めての横綱という人もいる。 吉田司家が授与した最初の横綱でもあったから。 なお、横綱が位となった制度は、明治42年からで、その時の19代横綱常陸山を初めて の横綱という人もいる。 相撲の歴史が正式に編纂されて、過去の記録をたどりながら 横綱系図ができたのは、大正になってからである。 歴史は、遡ってつくられることがある。 考える人と時によって、新たに見えてくる こともあるから。 ”時の旅人”考 家斎の文化業績はいろいろある。 寺社の建立、移動、北海道有珠善光寺にも記録が 残っていた。 年号も文化、文政。 碁も再び隆盛期を迎える。 十一世本因坊元丈 (宮重元丈)、八世安井仙知(中野知得)は終生の好敵手。 家元の当主となるよりも 前から打ち始め、多数の対局をしたが、ほぼ打ち分けの戦績であった。 共に名人の 位にありながら、両雄の技伯仲する故、共に八段に止まる。 と評せられた。 人品 高潔、互いに名人の座を譲り合ったという。 清廉な対戦であった。 続く激戦は、 力戦碁の神様といわれた、十二世本因坊丈和、対抗する十一世井上因碩(幻庵因碩)の 角逐が市井の話題となった。 感情のぶつかり合い、着手に意地がにじんでいる。 悪碁敵と評せられた泥沼の格闘、元丈、知得の清廉な戦いとは対照的である。 相容れ ない意思の戦い、棋譜を見ただけで、棋力を計ることはできない。 昔の作品が、それ を研究する人と、共演で演ずる劇は、後の世まで行われるであろう。 一つの 棋譜も、見る人それぞれで同じではない。 長い対決の後、11歳年長の丈和は、因碩 の追撃を抑え、名人碁所となった。 家元の合議ではない。 権門に策した抜き打ちで あったが、丈和の技量が一頭地抜いていたことは確かである。 丈和は若い頃、嘱望された棋士ではなかった。 後年、大器晩成型と評せられたが、 兄弟子、俊秀奥貫智策の後塵を拝し、なみなみななぬ努力をした。 本因坊跡目となった のは33歳、その頃の好敵手、桜井知達(安井門)、服部立徹(因碩の前名)は、10歳 前後若い人達であった。 丈和ほど個性の強い人は他にいない。 長い対決の間で、 丈和が立徹に先番を敗れたのは一度だけ。 その後の白番の碁、”丈和は先に、先番を 一局敗せり。 今この碁を負くるにおいては、立ち難き事情あり。 故に懸命の碁なり。” と関山仙太夫が評している。 優勢を維持していた立徹が敗着となった手を、”今川義元 の油断に髣髴たり。”と自評している。 一度の敗れを自己の人生岐路と考えるきびしさ。 家元の対立が激しかった時代に、頂点に立った巨星である。 相撲と碁が、何時頃から国技といわれるようになったかは、定かでないが、丈和の著書に 国技観光があり、相撲の殿堂ができて、国技舘と名づけられたのは、明治42年(19 09年)である。 昔と思っても、意外と我々の時代に近いのである。 丈和の後、天保四傑、本因坊秀和、秀策の時代となる。 秀策の知名度は、碁界では 一番高い。 先番不敗、理論碁の天才である。 人が、”先日の碁はいかがでしたか。” 問うたとき、”先番でした。”と答えたという話が伝えられる。 これは後世のつくり 話。 謹厳、温厚、謙虚な秀策が、不遜ともとれる言動をとるはずがない。 11年間、 お城碁で19連勝したが、平坦な道ばかりではなかった。 文久2年(1862年)、江戸にコレラが蔓延した。 死亡率が高く、介護するものも ほとんどいなかった。 秀策は介護に当たり、自らもコレラで倒れた。 享年34歳で あった。 生きていれば、やがて来る文明開化の世をいかにみたであろうか。 常識に 富む秀策の才が惜しまれる。 明治維新は江戸の文化を葬ったのである。 | |
| 09-0009 | |
| ◆国技・3 ◆カムイ ◆09年02月27日 04:06 | |
| 三世井上因碩(名人因碩)はもとは坊門であった。 道策は弟子の中で一・二の実力を もつこの人を跡目にする気がなかった。 意に添わぬものがあったのであろう。 また、 この人を恐れていたところもみえる。 井上家の養子とし、家督を継がせたのも、不服 を恐れてのことであった。 因碩の心の中はわからない。 師の扱いに感謝していた とは思えない。 師弟の間も親密なものとは限らないのである。 道策が期待していた跡目 道的は、二十一歳で夭折した。 道策の失望は喩えんようなかりしという。 ついで跡目 に選んだ策元、八碩、本碩、皆夭折して、年少の道知を跡目とした。 死期がせまっ時、 因碩(道節)に道知の後見を託し、八段へ昇段を許した。 気持ちの歩みよりを得たかった のだが、因碩自身が名人碁所を望まないように遺言した。 筋の通らない遺言など、死後に 守られないことは、秀吉が家康に遺言した例を見てもわかること。 道策の伝記で、この ことだけが汚点である。 でも、因碩は遺命を守っていた。 世評もあるから。 島津家が伴ってきた琉球の棋士屋良里子に免状を授与するのに、碁所が欠所ではできない。 道知はまだ若年、因碩が名人碁所に任じられた。 師命にそむく悪名を受けずに、因碩は 望みを果たした。 だが、その後も長く碁所を続けたのは、師に不満をもっていた表れ であろうか。 後年、道知が名人碁所になった時、因碩のため、自分の名人碁所が十年 遅れたと恨み事を述べている。 育ててくれた因碩なのに。 人の付き合いは、表面だけ ではわからない確執があるのである。 因碩、道知は、力戦型の棋風で、道策とは質が違うものを感じる。 道知の後、碁所はまた欠所となった。 本因坊家は、道知の後、知伯、秀伯、伯元の三代は、ともに三十有余歳で病死し、棋力も 六・七段どまりであった。 この間、他の三家も優れた人材はなく、低調な時代であった。 九世本因坊察元は家督を継いだ六段の頃から、他に懸絶した技量をもち、名人碁所を 志した。 当時悪い慣習があった。 将軍上覧のお城碁は、あらかじめ下打ちして、将軍 の前で、それを打っているように並べるのである。 下打ちの時、話し合いで、勝負の 均衡がとれるようにしていた。 すなわち八百長である。 察元は、自分の昇段に異議を 唱える井上因碩、林門入に、話し合いの勝負に応ぜず、真の実力でお相手すると宣言する。 安井仙角の助力もあり、疾風の如くに、準名人(八段)まで駈け上がった。 さらに、 宿願の名人碁所を願いでた。 拒まんとする六世井上因碩と争い碁となる。 因碩は、 高齢であり、察元の敵でなかった。 五勝一敗と連破し、名人碁所となった。 察元の遺憾とするところは、同時代に好敵手がいなかったことである。 碁界もまた低調 な時代であった。 察元は、蓄財の才もあった。 明和九年、飢饉、大火、疾病に、民 百姓は苦しめられた。 明和九(めいわく)と読み方が通じると、安永と改元した。 こんな時世に、察元は、京寂光寺への参拝に、大名行列にも劣らぬ共揃えを構えて、 東海道を下ったという。 不謹慎な行動ともとれるが、碁界のありかたに満たされぬ 心を、貯えた富を派手に散財することで晴らしたのであろうか。 察元が碁界に投じた一石は、二・三代後に開花するのである。 | |
| 09-0008 | |
| ◆国技・2 ◆カムイ ◆09年02月24日 12:27 | |
| 三代将軍家光は碁が好きであった。 しばしば伊達正宗と対局した。 戯れの舌戦が 伊達家に災いをもたらすことになる。 ”この石を片目にしてくれよう。” ”小石 川口から攻めましょう。” 小石川口は江戸城の弱点であった。 家光は碁に負けた 悔しさに、小石川口の修築工事の幕命が伊達家に下された。 伊達家の財政を揺るがす 出費となったのである。 家光は碁所が欠所になっていることを思い、碁所詮議を命じ た。 本因坊二世算悦、安井一世算哲、井上二世因碩、林二世門入の四家の当主が、 老中列座の前で協議したが、この時はきまらなかった。 この後、算哲の弟子算知は、 算哲の意思を継ぎ、寵好する南光坊天海や松平肥後守等に依頼して、碁所たらんと したが、ついに、正保元年(1644年)10月5日より、本因坊算悦と9年間に6局を 闘うことになった。 気の長い勝負だが、この6局は互いに先番勝ちとなり、碁所の欠所 は続く。 算悦が亡くなり、算知は、好機逸すべからずと、時の権門に嘆願して、 寛文8年(1668年)10月18日、ついに待望久しかりし碁所に補せられた。 算悦の死後、家督を継いだ本因坊三世道悦は、11年間、一度も対局したことがない 算知の碁所に承服し難い思いがあり、跡目道策を伴って幕府に出頭して、争い碁を 願い出た。 月番老中加賀爪甲斐守は、”算知の碁所の議は上様上意も同然なるに、 争い碁を願い出ずるは曲事である。 汝敗れなば、遠島に処せられるべし。”と威嚇した が道悦は屈しなかった。 ”碁院宗家に生まれ、このまま相果てなば、地下の祖先に 会わす面目も無之、たとえ勝負の上、武運つたなくして遠島に処せられても寸毫の 憾なし。” 必死の思いの嘆願に奉行も拒み得ず、詮議のすえ、一年二十番の割で 六十番打つべき旨の沙汰があった。 ただし、算知は碁所であるから、道悦が定先の 手合いときめられた。 算知は高齢であったが、初めは道悦もなかなか勝ち越せ なかったが、坊門には天才児道策の囲碁理論が育っていた。 安井家伝の接戦力闘に 対して、軽くさばく、手割論による捨て石の妙、師を凌ぐともいわれる道策の理論は、 道悦を支え、次第に算知を圧倒していった。 十五局までで、六局勝ち越し、手合い 直りの先相先、その後も四勝一敗とし、算知は番碁取さげと引退を願い出た。 道悦 も引退して、家督を道策に譲る。 本因坊四世道策は名人碁所となった。 他家から の異論は無かった。 傑出していたのである。 この人は、碁の理論が優れていた だけでなく、碁界の制度についても考える才能をもっていた。 段位制度はこの人の 創案である。 あらゆる勝負事、芸事に先立ってきめられた。 現在では、将棋、柔道、 剣道、空手、弓道、アマチュア相撲、書道などに段位制度が使われている。 優れた弟子も多くいて、元禄の囲碁隆盛期を迎えた。 だが、皆、早世してしまい、 碁所の後継者が続かなくなって、囲碁の低迷する時がくるのである。 | |
| 09-0007 | |
| ◆国技・1 ◆カムイ ◆09年02月17日 23:30 | |
| 二代将軍秀忠は、軍事では、優れた資質を見せなかったが、文化面での業績がある。 江戸以前の文化芸能は、民間で自然発生し、発展したものが多い。 散在する文化を 統括し、監督官庁も定めて奨励したのは、秀忠の政治である。 新しい制度が出来て、 相撲と碁は発展期を迎える。 どちらも古くから行われてきたが、専門職としてでは なかった。 相撲は古代から宮廷で、相撲の節会(せちえ)として、秋に行われて いた。 武士が政権をにぎり、皇室の力が衰え、源平の戦いがはじまると、承安4年 (1174年)を最後として、節会は断絶した。 相撲の中心は武士階級に移り、組討 の武技として奨励された。 戦時だけでなく、平時にも行われた。 曽我兄弟の仇討ち の原因となった、河津三郎と股野五郎の相撲は、源 頼朝の前でおこなわれたもので ある。 室町時代には、半職業的力士集団が、投げ銭目当ての辻相撲や、寺社建立の 寄付を勧める勧進相撲を行っていたが、後世に名を残すほどの力士はいなかった。 これらの相撲は、主に上方で行われていたのである。 すべての芸能が京阪で熟し、 江戸に下ってきたように、江戸で勧進相撲が行われるようになった。 木戸銭をとって 見せる興行である。 勧進は、正式に興行許可をとる名目だけとなった。 いまも、 地方興行の責任者を勧進元とよぶのは、その名残りである。 芸能一般は寺社奉行の管轄 だが、相撲興行が行われるときは、相撲奉行が特設された。 力士が相撲のプロとして 公認されたのである。 初代横綱が生まれた。 明石志賀之助、後世に名が残る力士で ある。横綱はこの時は、位でなく、最高力士で特に選ばれたものが締めることができる 栄誉であった. その格式は、京五条家が許可した。 150年後、第四代横綱からは、 吉田司家が許可するようになり、今日に至っている。 碁所が設けられた。 碁打ちの総元締めである。 官賜碁所の制度は、豊臣時代に定め られたが、昇殿まで許される日海上人が、算砂と名乗り、碁を天職とするようになった のは、このときからである。 碁の家元ができた。 本因坊家につづいて、安井家、 井上家、林家である。 家元の中から碁所が選ばれる。 最初の碁所は本因坊家である。 第一世本因坊算砂は、法印の位をもつ僧侶だが、後に、織田、豊臣、徳川に仕え、指導 碁も打った人である。 初めての名人(初代名人とは言わない)になった。 名人は、 最高棋士で特に推薦されたものが称することができる位である。 近世、第二十一世 本因坊秀哉までに10名を数えるのみ。 本因坊家7名、井上家2名、安井家1名で ある。 名人は碁所当主であったように思う。 井上家の元祖となった中村道碩は、 算砂の門弟、算砂の後の碁所となる。 本因坊家を継がず、新しい家元を起こすのは、 算砂の意思による。 道碩の門弟である井上因碩(古因碩)の名跡を第二世以来、代代 襲名することになる。 碁所は道碩の後、該当するものがなく、一時欠所となる。 横綱、名人、専門力士、専門棋士の誕生は、二代将軍の治世であった。 | |
| 09-0005 | |
| ◆東京近在便り 〜その十一〜 ◆谷口 一 ◆09年02月03日 10:56 | |
| 去年の暮れ近くに初めて沢庵を漬けた。干し大根が店頭に並ぶ時期を逃して手に入らず、今年もだめかと思っていたのだが、たまたま中軽井沢で渋滞中に、のろりと通過した八百屋の店頭に、売れ残りの干し大根が行き先もなく新聞紙の上に鎮座していたのだ。店のおばさんが言った。「先週までは倍の値段だった、買い得よ。」諦めていた干し大根に遭遇した喜びは、依然広島空港のトイレでサッカーブラジル代表のレオナルドと隣り合ってウインクを交し合った時に匹敵する。でもそんな喜びの表情は微塵も見せないで「買うよ、そっちのしなびた葉っぱの束もサービスしといて。」この葉っぱが漬けるときの蓋になる。しめしめ。 干し大根は15kg買った。立派な大根が16本。沢庵用と決まった時点で大根も独特の臭いを発するのか、少し乾燥しているからそういう臭いがするのか、東京までの3時間、車は暮れの寒さの中、十分な換気がずっと必要だった。 白菜を漬けるのは台所仕事ですむが、大根を漬けるとなるとベランダ仕事、裏庭仕事、男仕事になる。 15kgの干し大根に対し、3kgの糠と500gの塩が基本だ。あとは鷹の爪、少し甘いのが、という向きにはグラニュー糖を200g位入れてもよい。ホーロー製の直径40cm深さ60cmほどの容器を使う。以前はこの容器で熱心に味噌を作っていたが、手前味噌にもなれず、もう何年も味噌作りは中断している。 糠、塩をあらかじめよく混ぜておく。漬物専用のビニール袋(もちろん家には無いのでゴミ袋を3枚重ねる)を容器に広げて底に糠・塩を5cmほど敷く、その上に大根を重ならないように3本ほど丸めて入れる。そして糠・塩、鷹の爪を3本ほど、そして大根というように何回も重ねて置いていく。最後は糠・塩で大根を見えなくする。例のしなびた大根の葉で蓋をする。なければ木蓋、それもなければ何もいらない。ビニール袋で包み込んで、あとは重石だ。 重石。これが漬物の心臓で、これがしっかりとしていないと漬物は漬からない。沢庵を漬けるためには、大根の2倍の重さの重石が必要になる。つまり今回は15kgの大根だから、30kgの重石を用意しなくてはならない。この30kgもやっかいなことに1個で30kgではなく、3個で30kgが理想だ。ほぼ漬かりかければ重石を減らしていくのだ。30kg、20kg、10kgというように。ぐらぐらしないで、うまく重なるような10kg前後の石を3個探すことになる。 川の三作用は浸食、運搬、堆積だから、川へ行けば間違いなく石はある。多摩川も日野あたりだと河原にゴロゴロと石が見える。しかし上流から流されてくるうちに、石はもう角が取れて丸みを帯びている。これでは重ねて置けない。ましてこのあたりではもう石に清潔感がない。だんだんと男仕事になってくる。 多摩川を上流に走る。前回は下流へ二本足でだったが、今回は帰りに石の収穫があるので車。 青梅街道を軍畑、御岳と登っていく。川井の駅を過ぎてすぐ右折する。多摩川本流から離れて支流の大丹波川沿いをさかのぼること1時間。奥茶屋を越えると人家は一軒もなくなる。山の気配が強烈になる。川幅もせいぜい2メートル。大石が重なり合う。清冽な水の冷たさよ。そんなにしぶきをあげるな。 山の神よ、角張った10kgほどの石を3個いただきたい、と願う。使い道は言わない。なぜなら言えばきっと漬かった沢庵の2、3本よこせと言われるから。いささか強欲なのだ。嘘だと思うなら<山の神>を辞書で引いてみればわかる。たいがいの辞書ではAの意味としてちゃんと明記してある。 ここまでくると石も健康だ。角張ってどうどうとしている。人にたとえるなら明治人だろう。山の神に願った甲斐あって、すぐにそれぞれ10kgほどの高村光雲似の石と内村鑑三似の石と新渡戸稲造似の石が見つかった。もちろん3名ともヒゲを伸ばす前の顔だ。石にはコケもサルオガセも付いていない。 手が切れるほどの沢水で石を洗う。荒れたワサビ田が斜面に見える。ここでも農業が凍り付いている。 今、ベランダの日の当たらない隅で、わが沢庵漬けも40日が経過する。重石も今は20kgだ。節分の日には1本取り出してみようか。沢庵臭に鬼も寄り付かないかもしれない。そうくりゃあ沢庵漬けも本望、上出来といえる。 年中の糠漬け、夏の梅干、秋からの白菜漬け、冬の初沢庵と、この一年「漬物道」まずまずの精進。 一句「漬物は塩と素材と手間と暇」うっ、まだ現役の身「暇」は問題。誰か「暇」を埋めてくだされ! | |
| 09-0004 | |
| ◆脳梗塞 ◆こいさん ◆09年01月31日 16:04 | |
| 06年11月28日の投稿「脳梗塞のリハビリと囲碁」を読んだ後。偶然クレイン10級さんが対局されているのを見ました。自己紹介欄には「闘病3年でようやく普通の生活に戻りました」とあり、すごく嬉しく思いました。一時は囲碁を打つのも思い通りにいかず苛立って退会しそうだったのに。頑張ったんだなーと思います。 | |
| 09-0003 | |
| ◆私は貝になりたい ◆カムイ ◆09年01月11日 13:00 | |
| 往年の名画が再現される。 上官の命令で行った行為が、捕虜虐殺の罪で死刑を 宣告された一兵士の物語である。 絶望の底に沈み、生まれ変わるなら、深海に 住む貝になりたいと言葉を残す。 戦後間もない頃の悲劇である。 一局の碁が終わり、これが敗着と罪を問われる石がいる。 だが、その石に行動 を命じた上官(必然的な進行で、そこへ打つことが誘われる方針をきめた石)に 責任がある場合が多い。 犯罪(失敗)は根源をたどらないと、同じことが繰り 返される。 | |
| 09-0002 | |
| ◆東京近在便り〜その十〜 ◆谷口 一 ◆09年01月07日 11:49 | |
| JR中央線は立川を出るとすぐに長い鉄橋を渡り、多摩川を越える。その鉄橋のやや下流の土手に「多摩川右岸 海まで41km」と書かれた高さ50cmほどの石柱が立っている。 “海まで41km” このコピーにグッとくる。“海まで”という言葉にロマンがあるのはもちろんだが、“41km”という距離にもビンとくるのだ。これが20kmや10kmじゃあ「へえ」で終わってしまうかもしれないが、偶然にも日野に仮住まいの恩恵、アパートからだと限りなく42.195kmに近い。今秋にはチャレンジし、走破したい距離だ。しかしまだ、その距離に対する距離感がない。20kmはわかる、25kmもなんとかぎりぎりわかる。でも42.195km。 かって冒険家植村直己が、南極横断距離3000kmを体感するために、ほぼ同距離である稚内から鹿児島までを51日間かけて歩いたように、そのスケールの差は月とスッポン以上にあるけれども、「よ〜し、歩いてみよう」となる。 1月2日午前6時30分。 猫だけを起こしてしまって家を抜け出す。小さいザックにタオル、テッシュ、メモ帳、非常用防寒シート、軍手、デジカメ、みかん3個。 小さくても軽くてもザックを背負うとそれだけで幸せな気分になる。靴紐を締め直すと幸せが倍増する。 日野坂を下って中央線沿いに多摩川に出る。土手の空気できりっと身が引き締まる。冬枯れの河原にやっと日が差し始める。振り向かなくても背中に真っ白な富士があるのがわかる。立川、日野を結ぶ立日橋を渡って左岸を歩く。右岸、左岸は下流を見て右側が右岸、左側が左岸。ずっと左岸を歩くことになる。『悲しみよこんにちは』の作者が好きだからではない。ゴールを左岸河口の羽田空港到着ロビーにあるビール屋「ライオン」に決めているからである。 時速5kmで歩いて8時間強。午後3時には羽田で飛行機を眺め、ビール。 今日のルールは2つ、飲食はみかん3個だけ、トイレ以外立ち止まらない。 ひたすら歩くだけ。 しかし、考えればたいした距離でもない。ちょっと昔の人なら誰でもすたすた歩いた距離である。ナイキでもアディダスでもプーマでもなく稲藁の草鞋履きで。早足の人なら庄屋さんに頼まれて、書付と草鞋の替えを二、三足持って、日野村から江戸まで一日で往復したことだろう。若き日の土方歳三だって、日野から何度も江戸まで歩いたことがあったはずだ。近隣の近藤勇だってもくもくと歩いただろう。橋のない時代、彼らはどこで渡しに乗って多摩川を渡ったのだろうか。地図を見ていると、たぶん万願寺の渡しではないかと思う。渡れば府中、あとは甲州街道を江戸へ。いや、舟で多摩川を下り二子の渡しから江戸へ向かう。早道だ。そんなことこんなことを次から次へと脈絡もなく考えていると、いつのまにか田園都市線の多摩川鉄橋辺りまで来ている。ちょうど中間点くらいか。歩き始めて3時間半ほど経っている。時速5kmよりもペースは速い。みかん1個、口にほうりこむ。 土手道は歩く人、走る人、自転車の人。光の多い正月だ。ずっと右からの日を浴びている。上着はザックに詰め込んでシャツ一枚の腕まくり。新幹線の鉄橋を過ぎる。中央線の鉄橋からすでに24本の橋を越えたことになる。最河口の高速大師橋まであと10本。みかんを2個いっぺんに食べてしまう。若干ペースが速い分、汗をかく量が多い。第二京浜の多摩川大橋でガクンとペースが落ちる。六郷の土手辺りで両かかとに豆が出来ているのがわかる。ランニング用ではない厚手のソックスが悪かった。もう、川の流れはゆったりだ。カモメもいる。頻繁に離着陸する飛行機も見える。大師橋でルールを破って「午後の紅茶」をいっきに飲む。ここから羽田への道が長い。ビュンビュンと車が行く車道脇の道。河口が見える。海だ。 四時を過ぎている。足を引きずる。ルールの一つは守れた。 到着ロビーのベンチで長いこと休んだ。ビールは飲まなかった。 | |
| 09-0001 | |
| ◆打ち過ぎ ◆カムイ ◆09年01月04日 10:27 | |
| ”ゆっくり走ろう北海道” 過去に交通事故死が全国一位であった年があった。 道警 が掲げた標語である。 死亡事故は、地元だけでなく、他府県からきたドライバーに よっても起こされていた。 広広として視界が広い。 都会で抑圧された運転をして いたドライバーに開放感を与える。 A級ライセンスならずとも150はだしてみたい。 大型2輪のライダーでさえ、150近くで走っていたのを見たことがある。(という ことは、私も高速で走っていたことになるが。) 事故死は速度に比例する。 低速 ならば物損ですむ事故も、100を越せば死につながる。 でも、この考えも間違って いる。 いかなる速度でも、事故を起こしてはいけないのだ。 ドライバーも、事故を 起こすと思って高速で走っているのではない。 高速はだしても事故は起こらない。 自己技術への過信が事故のもとになる。 碁ではそれを打ち過ぎという。 激しい戦闘を制して石をとる快感は、高速走行の快感 と通じるものがある。 だが、一局の碁を死へ招く可能性もふくんでいる。 戦いは 控えめに、自己戦闘力を謙虚に考えることが大事である。 | |
| 08-0054 | |
| ◆時 ◆カムイ ◆08年12月27日 20:44 | |
| 年の瀬は 時の歩みの 一里塚 明日の旅路の 望みはるかに 時は休みなく歩む。 遠い過去から果てしない未来へ向けて。 今、人は、瞬時、 道連れとなる。 ニュートン力学は、c.g.s 単位系を慣用した。 長さ、センチメートル(cm)、 質量、グラム(g)、時間、秒(s)を基本単位とし、その組み合わせで、あらゆる 元の単位を考える。 長さ、質量、は、実視できるが、時間は見えない。 それ でも、人は時間と付き合ってきた。 日時計、砂時計、振り子の周期、そして今は、 電子時計。 人の知能も果てしなく進む。 よいお年をお迎え下さい。 新しい心で、来る年を飛躍の年に。 新玉の 年立ち返る 明日より 新たな息吹 囲碁にそそがむ | |
| 08-0052 | |
| ◆言葉 ◆カムイ ◆09年04月07日 00:11 | |
| 私は、囲碁教室の講師を勤める。 碁の手に、自分で考えた名前をつけることがある。 ”鶯の谷渡り” 詰碁の渡りの図だが、感じがでている。 私が手に名前をつける ようになる動機があった。 以前、先輩講師の教室を見学したことがある。 ”皆さん 碁の手には、名前があるのですよ。” どこかで聞いた言葉と思った。 思い出した。 演劇の中の台詞である。 見えず、聞こえず、言葉を知らない、三重苦の少女、ヘレン ケラーに、すばらしい先生が付いた。 その名は、アニーサリバン。 この出会いは、 ヘレンに奇跡をもたらすことになる。 生涯に、7か国語に精通した。 アニーに とってもこの出会いは、奇跡の人ヘレンケラーを育てるライフワークの始まりであった。 何から手をつけてよいのかわからない。 指を折って指話を試みる。 身振り動作で 何事かを知らせようとする。 初めは拒否するヘレンも、あきらめを知らないアニーの 努力に、次第になじんでくる。 アニーは聞こえないヘレンに何度も話しかけた。 ”へれん、物には名前があるのよ。” ヘレンが、人の意思伝達法を知るには、長い時を要した。 ついに、おぼえた、最初 の言葉、”water(水)”。 井戸端に走って、何度もすくい上げるヘレンに、アニー の努力は報われた。 だが、この時のヘレンの喜びには比べられない。 生涯、言葉の 研究に余念がなかったという。 意思を伝える言葉が大事なことは論を待たない。 エッセイ欄は、言葉の交換の場である。 碁友の方々の言葉を聞きたい。 | |
| 08-0051 | |
| ◆東京近在便り 〜その九〜 ◆谷口 一 ◆08年12月22日 11:14 | |
| 暮れのせわしなさが漂い始めた頃、多摩川を越えた日野に、腰掛けるように短期移住してきたわけだが、この町なかなかいわくありげで一週間はあっという間、坂の多い小道を登ったり下ったり、多摩川べりを白菜漬けのための漬物石さがしに夕暮れまで、目を上げれば、丹沢、富士に茜雲の色も濃く、奥多摩から秩父の方はすでに暗く、目を川原に戻せば、石の見分けもつかぬほどに闇はおりて、枯れ尾花を揺らす風に冷気がまじり、遅れ烏が二、三羽騒ぎ、どこで鳴らすか鐘の音、陰にこもって物凄くゴォ〜ン〜、落語『野晒し』の態、急ぎ足に家路をたどれば駅近くの縄のれん、お近づきの印と手招きしてるような破れ提灯、焼き鳥焼く煙もモクモクと歓迎の狼煙と一人合点、ザックに入れた漬物石の二、三個も肩に食い込み休み時、のれんくぐれば天国極楽と、いやいや待てよ、帰れば待ってる白菜ゴロリ、鷹の爪に柚子の実二つ、利尻昆布の10cm、まずは作っておこう白菜漬けを、石を探して坂道下りて、石を背負って坂道上るのが、これ意思の強さと覚悟して、甲州街道歩く男ありて、ふと見上げれば風にはためく旗指物の、「誠」の文字も鮮やかに、そう、ここは新撰組の故郷と世にも聞こえし日野の里、天然理心流の道場に若き頃の隊士等が腕を競って丁々発止、通った面々書き出せば、近藤勇に沖田総司、山南敬助の幹部連、そしてお待ちかね、日野の出身、土方歳三、井上源三郎と続けば、ここが新撰組の故郷と呼ぶのも至極当然屁の河童、寿司屋で河童は胡瓜巻き、しかしよくぞまァ、多摩の在から京都までテクテク歩いて125里、二七の十四日かけて、物見遊山は楽しかろうに、伏見警護のチャンチャンバラバラ、嵐寛主演の鞍馬天狗にさんざんやられ、坂本竜馬に嫌われて、内紛粛清の嵐も乗り越えて、土方歳三、最後は函館にまで落ち延びて、榎本武揚の蝦夷共和国陸軍奉行となるも、明治二年戦い戦い、ついに新政府軍の銃弾に倒れて帰らぬ人に、享年35歳は遅いか早いか、日野の在から夢抱き、日々鍛えた剣術でお国のためとまっしぐら、望み通りに武士にもなれたが、故郷に錦を飾ることなく、結局賊軍となり、命果てて、ああ勝てば官軍、負ければ虫けらのように、日本もつい最近まで内戦があったのだな、いやいやこの後も西郷どんの西南の役が勃発するのか田原坂、鬼の副長土方の残した発句を二つ三つ「山門を 見こして見ゆる 春の月」「行く年の 月日の流れ 蚊帳の外」「横に行 足跡はなし 朝の雪」と、号は豊玉、血の臭いのする新撰組も一人一人はただの人、俳句もひねり恋もしてずいぶんもてたと記録を残し、あっぱれ歳三は日野生まれ、帰ろうと上った日野坂もどうもなんだか飲みたくて、やっぱり途中引き返し、くぐったのれんは立ち飲み屋、日野自動車の連中か満員御礼ピーチクパーチク、カウンターのわずかの隙間に身を入れて、焼き鳥塩と生ビール、一杯飲めば異国の町もわが町に、聞き耳立てれば思い出話、いいじゃないの幸せならば、なかなかですわ煮込みの味も、さあ熱燗に切り替えて、白菜漬けを頼もうと思って思い出す、背中のリュックが重いだす、洒落にならない切り上げて、背中で帰る男意気、誰も見てない二、三歩六歩、白菜待たして四、五時間、坂をたどれば上弦の月、ちょっと間延びで明日は天気か、はたまた時雨か、京は時雨の名所で新撰組、勤皇の志士を清水坂に追い詰めて、濡れた羽織は重かろう、すべる足袋では刀もぶれて、逃れた志士は薩摩か長州、長州者は強かった、今でも新撰組とは敵と敵、いくらSMAPの慎吾が大河ドラマで近藤勇を演じても、山口ではきっと低視聴率、ほんとかな、でもそうなると日野と山口は犬猿か、左幕と勤皇、自民と共産、読売と朝日、米とパン、まてよ、犬も猿も干支にあるのになぜ猫はないのか南方熊楠先生よ、そんなこんなで、日野の駅から二つ曲がれば家に着き、白菜漬けに取り掛かり、たっぷり塩を振りいれて、あれ!たしか尾崎放哉にこんな自由律の句があったな「漬物桶に塩ふれと母は産んだか」おお〜まさに自分じゃないか〜、自由律といえばもう一人、山頭火も一句「うしろすがたのしぐれていくか」ああ〜これもなんだか身にせまるぞ〜、自由律が俳句かどうかは別として、世逃げ人の二人の句、江国滋さんには叱られそうだが、2008年12月ちょっといいじゃないと思いながら、柚子の皮をむき、塩もまたたっぷりと振りいれ、十分に洗った重石のせて、わが母ならこう詠むだろうと思う。 漬物桶に 塩ふれと 母は産んだぞ | |
| 08-0050 | |
| ◆クジとサイコロの問題解答 ◆長良川 ◆08年12月19日 12:34 | |
| カムイ様や多摩川様から正しい解答をいただきました。ありがとうございました。 いただいた解答と同じことなのですが、以下に解答を掲載しておきます。 <設問1の解答:数学的帰納法による証明> @上から1番目の横線の下では、最初の各縦線とクジを引いた人の名前の対応を、横線に接する左右の縦線の名前を入れ替えた対応となっており、名前と縦線とは1対1で対応している。 A上からn番目の横線の下の縦線と名前が1対1で対応していると仮定すると、その名前のなかでn+1番目の横線に接する縦線に対応する名前を入れ替えたものがn+1番目の横線の下の縦線と名前の対応となっており、上からn+1番目の横線の下でも縦線と名前が1対1で対応していることになる。 Bしたがって横線の数や位置に関わりなく、最後の横線の下でも、名前と縦線は1対1の対応関係にある。 <設問2の解答> n番目にクジを引く人の当たる確率(期待値)はすべて同じであることを証明する。 (多摩川様の解答そのもの) 最初の人の当たる確率=m/n(nはくじの総本数mは当たりくじの本数) 二番目の人の当たる確率=最初の人が当たって二番目の人が当たる確率+最初の人がはずれて二番目の人が当たる確率=(m/n)(m-1)/(n-1)+(n-m)/n×m/(n-1)=m/n したがってn番目の人の当たる確率=m/n(実はこの部分の証明をどうやってするかが難問) <設問3の解答> これは反復試行の確率の問題である。 n回の試行で確率pの事象Aがr回起こる確率=nCr・pのr乗・(1−p)の(n-r)乗 この公式に、n=6, r=3, p=1/2 を代入すると、 求める確率=6C3・(1/2)の3乗・(1/2)の3乗=20・(1/8)・(1/8)=20/64=5/16 | |
| 08-0049 | |
| ◆碁と占い ◆カムイ ◆08年12月16日 10:46 | |
| 碁と占いは、無縁ではない。 古代、占星術から碁が考えられたという説もある。 占いは、星占いのほか、亀甲の占い、筮竹を用いる八卦など。 方法は異なっても、 占う人の能力による。 預言者、占い師、神託を告げる巫女、共通した才能をもつ。 自己催眠、現状を把握し、推理して先を見通す洞察力、それを無意識の中に行う。 繰り返す中、人の才能はさらに進化する。 優れた占い師の言葉は高い信頼度がある。 私も、占いに興味がある。 夢みる性格、データー分析と推理、私のデーターは、 数理統計学による。 高校で数学を教えていた頃、確立統計の章に、確かと確か らしさ、という見出しがあった。 確からしさ、あいまいな表現が、純粋数学を好む 私には、意にそわない気もしたが、実生活では、応用数学、この統計的確立論が役に たつ比率が高い。 現在、こと柄によっては、コンピューターを使って、何年も先の ことが、98パーセントの確からしさで、”予言”されている。 統計学は、平成の 占い師なのである。 ”時の旅人”の未来への旅。 碁も洞察力が大事である。 先のことが見えると、手を読む方針も立ってくる。 だが、私は不振である。 目が悪いのと、時間に弱い。 切れ負けのランキングが あれば、かなり上位にいると思うが、そのデーター収集の道はない。 30分申し込みの人がいるが、私の弱みをつく意図とは思わない。 私は碁友を 信じる。 私の弱さは、思考と時間経過のバランスの悪さであり、長短ではない。 30分碁も受けることにしている。 | |
| 08-0047 | |
| ◆くじは公平か ◆多摩川 ◆08年12月18日 15:32 | |
| 久しぶりに長文エッセイを覗いてみたら長良川さんの書き込みを発見しました。50年前の数学を思い出しながら挑戦してみました。くじの公平はくじ引きを始める前の当たる確率がくじを引く全員が同じでなければなりません。誰かがくじを引いた結果を知ってそれ以後の当たる確率を求めれば結果は違ったものになります。最初の人の当たる確率はm/nであることはすぐ分かります。(nはくじの総本数mは当たりくじの本数)さて二番目に引く人の当たる確率はどうなるでしょう。二番目の人の当たる確率は最初の人が当たって二番目の人が当たる確率と最初の人がはずれて二番目の人が当たる確率の和になります。これを式にすると(m/n)(最初の人の当たる確率)×(m-1)/(n-1)(二番目の人の当たる確率)+(n-m)/n(最初の人が外れる確率)×m/(n-1)(二番目の人の当たる確率)=m/n 最初の人と二番目の人の確率は同じになりました。同様に三番目以降も証明が出来ますが長くなるので省略します。順列を考えるとき順番(前後もしくは時間)は問題になりません。古来くじびきは公平に出来ているわけです。ですからくじを引く順番をあらかじめくじ引きをするのは全くつまらないことといえます。 サイコロの問題も考えてみました。6個のサイコロの目が奇数か偶数かは2の6乗つまり64通りの組み合わせがあり問題は6個の中から3個とる組合せの数6C3=20と同じ意味になると思います。答えは20/64と考えましたがいかがでしょうか。6個の中の全てが偶数、1個が奇数、2個が奇数、...6個が全て奇数これらの数はパスカルの三角形の数1、6、15、20、15、6、1に対応していると思います。 あみだくじの問題はカムイさんが掲示板にのせていますが背理法を使っても証明可能と考えました。又階段になっている部分を伸ばしてひもと考えると全ての人が一本のひもで結果と一対一につながっていることも分かりやすいと思います。 | |
| 08-0045 | |
| ◆クジとサイコロ ◆長良川 ◆08年12月10日 12:06 | |
クジやサイコロは人の技量その他の要因に影響されることなく偶然のみによって順位などを決める方法であって、囲碁とはまったく正反対のものである。この囲碁とはおよそ縁の遠いクジやサイコロについて考えてみるのは、気分転換としても面白いのではなかろうか(実は、他の人の書き込みをカムイ様が期待されていたので、この文を書いた次第である)。 1.あみだくじ あみだくじとは、ある数の人にその人数分の番号を同一確率の偶然性にもとづいて割り当てる方法の一つである。 じゃんけんでなどで勝った順に番号を割り当ててゆく方法もあるが、あみだくじで決める方法は、人数が大勢いても簡単に結果が得られることや、参加者は誰でも横線を自由に付け加えて結果に影響を与えることができることや、くじを見ただけでは結果がわからず、どのような順位になるか楽しみであることから、じゃんけんなどよりも好まれる。 あみだくじは参加人数分の縦線を引き、隣り合う任意の二本の縦線に横線を渡して作成する。横線は、どの位置に引いてもよいし、何個でも好きなだけつけることができる。 このようにして作られたあみだくじは、上から縦線に沿ってなぞってゆき、横線に交われば横線に沿って進み、横線が縦線に交われば縦線に沿って降りる。縦線の下端に行き着くまでこれを繰り返す。すべての縦線は、上端から出発してそれぞれどれかの縦線の下端に行き着く。このようにして、すべての縦線の上端(たとえばある数のあみだくじ参加者)を縦線の下端(たとえば賞品や品物をとる順位)に割り当てることができる。 このあみだくじについては前々から不思議に思っていることがある。それは、なぜ、縦線の上端(参加者)から出発したくじの経路は必ずそれぞれ異なる縦線の下端(順位)に行き着き、それがダブって複数の参加者が同じ順位に割り当てられたり、人が割り当てられない空の順位ができたりしないのかといことである。そこで問題。 <設問> あみだくじ参加者は、最下位が参加者数に等しい順位内に過不足なく必ず1対1で割り当てられることを証明せよ。(重複順位や空順位は生じないことを証明せよ) 2.くじびきは公平か 順番や分配や賞金を決めるのにくじが使われることがしばしばある。 しかし、くじをひく順番によって当たりはずれが違ってこないのだろうか。もし、違ってくるのだとしたら、くじを引く人はその順番にこだわるはずであるが、世間ではあまりこだわっているようには見受けられない。しかし、たとえば10個の中に当たりくじが3個だけあるくじを10人が一人ずつ順番に引く場合を考えてみよう。最初の人が当たりくじを引いてしまったら、残りの当たりくじは2個しかなく、これを残り9人で引くことになる。とすれば、残りの人が当たりくじを引く確率は下がってしまう。このように考えると、くじを引く順番によって当たりはずれが影響を受けないとはいえないようにも思えてくる。 そこで問題。n個のくじのなかに当たりくじがm個ある場合に、くじを引く順番によってくじが当たる確率は変わるのか変わらないのか。変わるとすればどのように変わるのか。変わらないとすれば、なぜ変わらないのか。これを数学的に、すなわち誰もが納得する厳密さでもって証明せよ。 3.サイコロ サイコロは1から6までの6個の数字の中から1個の数字を一瞬のうちに決めることができるので、順番などを決める場合に愛用されてきた。そこで、問題。 「1個のサイコロを6回続けて振って、そのうち3回だけ奇数が出る確率はいくらか。」 <ヒント> サイコロの6つの数字のうち、奇数は3個、偶数も3個ある。だから、サイコロを1回だけ振って奇数がでる確率は1/2である。2回目以降も同じことがいえる。 <解答> 1回やって奇数が出る確率が1/2なのだから、6回やればそのうちの半分だけ、すなわち3回だけ奇数が出ることになろう。だから答えは1/2である。 <検討> 上の解答は、結論からいうと誤りであるということだけを指摘しておこう。本当の答えは、各自、自分の頭で考えてください。どうしても答えがわからないときは、事務局までご一報を! | |
| 08-0044 | |
| ◆真珠湾 ◆カムイ ◆08年12月08日 02:30 | |
| ”12月8日未明、帝国海軍は、真珠湾を攻撃し、敵に多大なる損害を与えたり。” 大本営発表である。 国民は、一様にどっと湧いた。 現代史上大きな分岐点となった この日から4年、初戦の勝利にもかかわらず、日本は苦難な道を歩む。 開戦1年で、 戦況は変わり、国運は日に日に傾く。 だが、飛行機乗りにあこがれる少年に戦いの 推移はわからない。 悲壮感がただよう祖国存亡の秋、母のなげきも知らずに、海軍 に志願した。 国内に、もう私の乗る飛行機はなかったのである。 敗戦、復員したが、虚ろであった。 数学、歴史、語学、勉強は好きであったので、生活は乱れなかったが、目標を失って いた。 進学して間もない頃、碁と出合った。 この競技が、私の人生観を育てて くれる。 広い視野を養うことで、世の中がよく見えてくる。 戦後、人々の思想も 変わりつつあった。 軍事力を国力と考えた人々は退き、戦争の空しさは、戦勝国にも 浸透していった。 現代文明が開花する夜明けであった。 半世紀、過去の歴史には、 見られない進化をする。 物質文明の進歩は、この時代を生きてきた私も目を見張る ものであった。 歴史は、出来事の単なる記録ではない。 その時代の人々が、一生懸命に生きてつくる ものである。 私も、現代史をつくる一粒の種なのか。 人は人の中に生きる。 交際は大事である。 私は今、碁の仲間を大切に思う。 | |
| 08-0043 | |
| ◆兵法・2 ◆カムイ ◆08年12月03日 13:41 | |
| ”敵を知り、己を知る。 而して勝ちを得る。” 私は毎日、碁友(現在180人位)の順位持ち点を書き出している。 手書きすることで、 碁友の顔(棋風)が目に浮かび、動静がわかる。 対戦成績は、手帳代わりのポケコンに 入力してあり、数秒で知ることができる。 対戦棋譜は、最新の勝局と敗局を一局ずつ、 モバイルに写してあり、対局しながらでも、見ることができる。 これほど手を尽くしても、私の実績は上がらないが、対戦者への敬意と思って行っている。 | |
| 08-0042 | |
| ◆兵法 ◆カムイ ◆08年11月27日 11:26 | |
| 孫子の兵法は碁にも応用できる言葉が多い。 善く敵に勝つものは争わず。 善く陣するものは戦わず。 善く戦うものは破れず。 善く破れるものは乱れず。 常勝の王者は、自ら争うことは求めない。 布石を上手に打てば、戦わずとも、有利な 形勢を維持すればよい。 中盤で善戦すれば、破れることはない。 策戦が破れた時も 損を最小にとどめるように努めれば、決定打にはならない。 終わりの句が私は好きだが、実戦でも、碁でも、これを実践できる人は少ない。 中国の春秋時代、晋の国に、士会という天才兵法家がいた。 春秋時代に大会戦といえる ものは多くはなかったが、前597年、黄河南岸の”ひつ”という地で、晋軍と楚軍が それぞれの盟下の国の軍をしたがえて激突した。 それを、”ひつの戦い”という。 晋軍は惨敗した。 ”−−晋の軍敗れて、河に走り、渡るを争う。 船中の人指甚だ 衆(オオ)し。” と史記に記される。 また、春秋左氏伝にも、”ーー中軍、下軍、 舟を争う。 舟中の指掬す可し。” と記されている。 舟中に指が多いとは、恐怖 にかられて、敗走する晋の兵が、先を争って舟に乗り、後からきて舟べりにすがる味方 の兵の指を、切って落とし、急ぎ舟をだしたのである。 それほどの敗戦、だが、 上軍だけ破れなかった。 上軍の将、士会は、晋の大臣でもあったが、用兵のたくみさは 春秋時代を通して、一、二を争う人である。 士会は、戦前に敗戦を予見していた。 自軍のまとまりが悪かったのである。 だが軍議 では、兵をひくことは入れられなかった。 兵を損じまいと、戦機を見ていたが、中軍、 下軍が惨敗し、敗走を始め、手の打ちようもなくなったので、伏兵をもうけ、楚軍の 追撃かわして、河を渡り、撤退した。 見事な進退であった。 孫子の言葉は、このときの士会の戦いぶりを、念頭においたような気がする。 | |
| 08-0041 | |
| ◆まほろば ◆カムイ ◆08年11月18日 18:11 | |
| 心が動から静に移るとき、やすらぎを求める。 まきむくの勇者、ふるさとを遠く離れて、心の中を寂しさが過ぎた。 大和は 国のまほろば 畳なづく 青垣 山ごもれる 大和しうるはし 伝承の世、倭建命の望郷歌と語られる。 西を征したときは、建き武勇は称えられたが、 父天皇に疎まれ、東征は、軍衆を賜らずに、都を発った。 伊勢の大御神宮(オオミ カミのヤシロ)に立ち寄り、おばの倭比売命に別れを告げ、わずかな手勢をつれて東へ 向かう。 富士の裾野焼津の火攻め、相模走水の海難、幾多の苦難を越え、妻を亡くし 股肱の臣も失って帰る、悲劇の英雄に古代のロマンを思う。 歴戦に疲れ、盤上にまほろばを求めて。 | |
| 08-0040 | |
| ◆邪馬台国 ◆カムイ ◆09年04月09日 08:45 | |
| ”まぼろしの邪馬台国”というドキュメンタリー映画が上映されている。 宮崎康平さん の物語である。 魏志倭人伝に記された邪馬台国が、何処にあったのかが、史学界で論議 の的になっていた。 文字使用が遅かった日本の歴史は、文字史料のない時代を先史と いい、伝承の時代は、史実とは離れたものと考えられていた。 だが、神話がまったくの 無根のこととは思われない。 神ごとは、人の世の出来事を伝えているように見える。 近世になってから、遺跡の発見が多くなった。 19世紀末、殷王朝の甲骨文字が発見 された。 現在までに発見された最古の文字である。 驚くべきことは、2200年も、 地下に眠っていた始皇帝の兵馬よう坑が発見されたのは、1974年、最近のことである。 偶然の発見もあるが、文明の進歩が、人の手を地下にに伸ばした。 地下工事中に発見 された遺跡も少なくない。 遺跡が歴史の資料になる。 昭和26年頃、宮崎さんは、眼底網膜炎を悪化させて失明した。 視力を失ってから、 邪馬台国の探求を思い立った。 早稲田大学文学部で史学を専攻したが、専門の歴史家 ではない。 父のあとをつぎ、島原鉄道の社長として、意欲的な経営者であった。 故郷島原の近くに、邪馬台国を想定していたのである。 各地の遺跡を訪れ、古代を 思った。 知識と推理、盲目の宮崎さんの史観である。 神話にも歴史的意味があると 考えていた。 古事記、日本書紀が編纂された頃、漢字は表音文字としても使われて いた。 これを表意文字としてよむと、人名(神名)も、地名も異なるものになる。 妻の目を借りて、記紀を500回も精読した。 杖をつき、妻に手をひかれ、倭人伝に 記された経路と思われる道を歩き、昔の国を比定した。 研究の成果を世に問うために、”まぼろしの邪馬台国”を出版した。 昭和42年早春 であった。 ベストセラーとなったこの著書によって、多くの人が古代へ誘われた。 私もその一人である。 思考を古代へ旅させる。 神話が好きで、推理好きな、”時の 旅人”は、自己催眠によってこれを行った。 目を閉じて、意識を沈ませていく。 現代人と古代人は無縁ではない。 歴代の遺伝子相続によって、今存在する。 人の 潜在記憶は、肉体生命をこの世に存在させる以前に遡ることができるのか。 私は古代 の風景を見た。 神託を告げる巫女が、自意識にない言動をとるように。 まつろわぬ神と戦う高天原が、邪馬台国なのであろうか。 卑弥呼の墓、百余歩の塚は、 いつか、姿を見せる時がくる。 20世紀後期になってから、遺跡出土品は雄弁になった。 科学の進歩により、年代が 推定できて、多くのことを明かしてくれる。 歴史を語るものが文字だけではなくなり、 急速に時代を逆行して行くのである。 | |
| 08-0039 | |
| ◆東京近在便り〜その八〜「落語、配達承ります」 ◆谷口 ◆08年11月06日 13:00 | |
| 落語を初めて聴いたのはラジオからだった。1960年前後。金馬も文楽も志ん生も現役バリバリの頃、タンスの上に鎮座する真空管ラジオからは、誰の噺が流れていたのだろう。自分は親の膝の中に居て、母も一番上の姉もクスクスと笑っていた記憶がある。金馬が電車事故で片足がないことは知っていた。 同じ頃から、テレビには落語を演じない落語家が何人も登場してくる。柳家金語楼が『ジェスチャー』、小金馬が『お笑い三人組』、志ん朝が『若い季節』、小金治が『アフタヌーンショー』など。テレビ時代になり、寄席も激減して、器用な落語家はタレントと二束わらじを履くことになる。談志も漫談のようなことをやっていた。それでもまだ東京にはいくつかの寄席が残り、行けば落語を聴けたのだろうが、地方の人間には落語との縁が急速に薄れてしまう。ラジオではまだ落語をやっていたのかもしれないが、生活様式はテレビ一辺倒になっていた。ラジオはタンスの上で棄てられるまでずっとビロードの布を被っていた。 70年代、東京に出てきた頃は、まだ映画も映画館も元気だった。池袋に文芸座があり、銀座に並木座、渋谷は全線座、飯田橋に佳作座、馬場の早稲田松竹、あちこちに名画座、個性をもった映画館がまだまだいっぱい残っていて奮闘していた。 新宿には蠍座があった。伊勢丹の明治通りの向こう側、路地を入ったところ左側のビル、地下に降りていく階段、50名ほどでいっぱいの小劇場・ミニシアター。ここの支配人が伝説の演劇・映画プロデューサーの葛井欣士郎。この葛井氏が蜷川幸雄や寺山修二や美輪明宏を世に送り出した。この蠍座で市川昆監督の『股旅』を観た。尾藤イサオ、小倉一郎、萩原健一の三人の渡世人見習いの話。見終わって階段を上がってきたら夕暮れだった。季節は覚えていない。ただ、真夏ではなかったような気がする。空気が乾いていた。ジーパンに下駄。普段なら路地を伊勢丹側に帰るのだが、映画でショーケンが土手の上を「オーイ、オーイ」と歩いていく映画のラストの余韻がそうさせたのか、路地を奥へと歩いていった。もう飲み屋の提灯は明々と灯り、焼き鳥屋の煙はもうもうと、狭い通りに行き渡っていた。二つ三つ角を曲がって、どこかでビールでもと思った時、目に入った風景を今でもはっきりと覚えている。古風な造り、寄席文字の看板が並ぶ新宿末廣亭の前に来ていたのだ。落語からすっかり遠ざかっていた頭に新鮮な寄席文字だった。新宿西口には京王プラザホテル、三井ビル、住友ビルと高層ビルが建ち始めていた頃。好対照の末廣亭。その佇まいは雑誌か何かで見て知ってはいたが、目の前に見たときには「ああ、ここにあったのか」という感慨。平日の夜席、前座の高座がもう始まっていた。十何年かぶりで落語に会えた。トリは数年前に亡くなった文治になる前の伸治だったように思うが。それから何年かは末廣亭によく通った。 80年代に入ってからはバタバタとした生活もあり、またぷっつりと落語とのつながりが切れてしまう。 縁の復活は2000年に入ってからで、PCや携帯で落語を提供する仕事のお手伝いをさせてもらうことになり20年ぶりの邂逅となる。仕事であるから落語関係の本や速記本も熱心に読むようになる。噺家さんとの付き合いもぼつぼつと増えてくる。以前より落語の世界が面白くなってくる、見えないものも見えてくる。落語家と言っても落語だけで喰っていくのは大変な世界。それに個人事業主ときている。協会はあっても会社じゃない。そこから仕事が降ってくるのはごくわずか。若手の真打、二つ目なんかは昔も今も、臥薪嘗胆、青息吐息。寄席の激減で高座に上がりたくても高座なし状態。なんとかしなくては。 新聞の社会面、経済面、政治面、文化面、国際面、どこを見ても影の濃い得体の知れない現代に、まさに起死回生の9回裏二死満塁一打逆転サヨナラの場面。代打「落語」、落語的思考、落語の時代なのに、落語を聴ける場所がない。江戸の末や明治には、自宅の二階を寄席にした粋人がいたというが、この世知辛い現代に無理な望み。となると、日暮れて道遠しだが、自分で小さな看板を立てよう。弊社定款に+1。 「落語、配達承ります」(噺家派遣業) 祝いの宴でお目出度噺、学校向けにささやかな人情噺、病院では笑いで治療、会社ではプレゼン能力倍増のイロハ伝授、とにもかくにも笑う門には福来る!大神楽や手品、紙きりなど色物も一緒に配達可。 「落語、配達承ります」ぜひお引き立てのほど。本日はちょっと営業。 お後がよろしいようで。 | |
| 08-0038 | |
| ◆神無月 ◆カムイ ◆08年10月29日 10:55 | |
| 神々が出雲に集まると言う。 この語り伝えは、中国の春秋時代に、周王朝のもとに、 諸侯が年に一度参勤した制度に似ている。 神ごとは、人の世の出来事が消えずに、 何時までも伝えられているように見える。 乗り物もない時代、神々が袋を背負い、 自分の足で出雲に向かう様を、頭に思い浮かべるのは楽しい。 私は、神社を訪れ、神と話をすることがある。 神社は、神が地上に降りた時の仮寓 だから、神無月ならずとも留守の時が多い。 でも、話はできる。 神だから。 人が神に願い事をするのは、筋違いである。 人は神と約束をし、努力目標を決める。 私は、まだ神との約束を果たしていない。 それが、明日生きる活力となるのである。 | |
| 08-0037 | |
| ◆古代への招き ◆カムイ ◆08年10月14日 12:16 | |
| お伊勢まいりをした。 歴史のふるさとである。 神道は宗教でないというが、3世紀末(私の推定)から続いた神宮は、多くの信者 をもち、世界でも有数の宗教文化と考えられる。 広大な神域、古式を保つしきたり、 外国からも畏敬の目で見られている。 神宮の祖先として語られる神話の世界も、 身近なものと感じられた。 私は神が好きなのである。 高天原の生活様式は、弥生 文化、農業、機織を生活の基盤にしている。 私、”時の旅人”は、弥生より前、縄文の世界へも、しばしば旅をしている。 函館の大船遺跡、青森の三内丸山遺跡などを含む、”北海道・北東北の縄文遺跡群” が、文化庁の世界文化遺産暫定リストに加えられた。 南茅部で発見された中空土偶 は、国宝に指定された。 三内丸山の巨木を使った集落、ここに、5500年も昔に 文化があったことを語っている。 遺跡からの出土品から、その時代へ思考を旅させ るのである。 今まで、四大古代文明は、エジプト文明、メソポタミア文明、インダス 文明、中国文明とされてきた。 中国文明は、碁の起源に関係がある。 日本の米作農業は、中国より1500年遅れて始められた。 神々の世界は、これより 後の思想となるのだが、神は時空を超越するから。 三内丸山の出土品は、中国文明より1000年も前のものである。 大和民族(八州 列島先住民族と言った方がよいのか)が、漢民族より劣っていたわけではない。 気象条件の不適、あるいは、人口を養う自然食料の豊富さ、からか、農業の発生は、 列島でも北は南よりさらに遅れる。 ここに農業が発生していたら、 碁の発祥地は 中国に先んじて、列島北であったかも知れない。 農業、土地を所有する思想から 発して、碁が考えられたと思うからである。 | |
| 08-0036 | |
| ◆碁の起源 ◆カムイ ◆09年03月24日 13:44 | |
| 中国4000年の歴史で、夏王朝は最初の国家と言われている。 碁の起源は夏王朝より 前に遡る。 夏王朝以前の、伝説の帝王、三皇五帝は、支配者というよりは、民を導く 徳の高い人のように思われる。 人々に農業を教えた。 人が自分で自分たちの食料 を作り出す。 野性からの進化である。 農業に必要なこと、春夏秋冬を知るために、 暦をつくることが大事であった。 初めの頃、耕作を教えた神農、五気、木・火・土・ 金・水 を季節に当てはめた黄帝、から、はるかに時代が下がって、五帝の四代、帝尭 の時に、初めて暦らしい暦がつくられた。 作成者は、天文学者、義仲、和仲の二人 である。 ”−−義和に命じ、敬しみて、こう天に順い、日月星辰を数え法り、敬しみ て、民に時を授けしむ。 −−歳三百六十六日、閏月をもって四時を正す。”と史記に 書かれている。 帝尭から位を譲られた帝舜は、天体観測機をもち、自ら暦数を管理 した。 帝舜の後継者、”う ”が夏王朝の始祖となる。 夏王朝の暦を夏暦といい、 日本の旧暦のもとになっている。 農業に必要なこと、灌漑治水の工事も行った。 これらを成し遂げた、天文学者、数学者が、碁という競技を考えたのであろう。 農業を始めた人々は、土地を所有する意識が生じ、欲も芽生えた。 実生活で、土地を 取り合えば、秩序を乱し、社会が壊れる。 盤の上での競技としたことが、人々を 満足させた。 碁は、土地の所有と、天文に縁が深いのである。 4000年も昔に、 天体運行の周期を、今日と変わりないほどに、観測することができた頭脳が、考え 出した文化遺産、最古のゲームである。 | |
| 08-0035 | |
| ◆東京近在便り〜その七〜 ◆谷口 ◆08年09月29日 14:34 | |
| 51分13秒。 目標には73秒、距離にして250m届かなかった。前を走る人は点々と見えるのだが、追い上げていく体力が残っていなかった。また暑かった。給水所の度に頭に水をかぶり、シャツも靴もグジョグジョに濡らす。走り出すとシャツが肌にまとわりつき、水をかぶったことを後悔する。しかしまた給水所が見えてきて冷水の入った紙コップを手に取ると頭に首に水をかける。木陰のない八ヶ岳山麓のアスファルト道。沿道の畑のおばさんの声が耳に残っている。「上りそこまでよぉ」この声に助けられた。スタートから900mを一気に下る。そこから折り返しまではほとんどが上り坂。「〜そこまでよぉ」はまさに天の声だった。 市民マラソン参加は二回目だけれど、本当に多くの地元ボランティアの方々の協力で大会が成り立っているのがよくわかる。おかげさまで走らせていただいていますと素直に感謝できる。臨時駐車場には他県の車も多いけれど、どれほど地元にメリットがあるのだろう。たかだがしれたものと思うのだが。一生懸命接待してくれる。世話になる。ただ感謝。 さて次は10月。今から長野県でエントリー出来る大会は、5日の「浅間山登山マラソン」19日の「虚空蔵山米担ぎマラソン」「佐久市マラソン」「松本梓川マラソン」の4大会。登山マラソンと米担ぎマラソンは膝痛のことを考えれば無理だろう。米担ぎは魅力だが来年にとっておこう。佐久は道も知りすぎていて面白みに欠ける。よって梓川べりを走ることにする。ちょうどひと月後。また練習だ、走り出そう。 東京近在国分寺界隈には走っていて楽しい所が散在する。 矢田挿雲著『江戸から東京へ』の書き出しは、東京近在者をにんまりとさせてくれる。“江戸も本郷の兼安まで”なんて時代の遥か千年前、武蔵の国府は府中にあり挿雲曰く「この点江戸はいくら威張っても府中に頭が上がらない」。その府中の北に741年聖武天皇の詔により建立されたのが武蔵国分寺。同時期に鎮護国家のため全国の68箇所の国府近辺に国分寺と国分尼寺が建立されている。武蔵国分寺は金堂、塔、講堂、中門、鐘楼、経蔵、僧坊をもった広大なものだった。塔は七重でその威容に古代人は目を瞠ったことであろう。しかしその諸々は千年の流れの中で土にかえってしまった。ただ礎石が残るのみ。そのやや北に国分寺崖線があり、湧水が小川をつくり流れている。この辺りが全国名水百選に選ばれている「お鷹の道・真姿の池湧水群」JRの国分寺駅から南へ十数分の所にある。新宿から小一時間、おすすめスポットだ。初めての人は必ずその清涼さにびっくりする。こんな所にこんな場所があったのかと。 自宅から約5km、時々のランニングコースだ。1300年前の礎石に腰掛けて、ゆっくりとストレッチもする。目を閉じるとビュンビュンと歴史が飛んでいく。鎌倉から室町に時代が移る頃の1333年5月、鎌倉幕府軍と新田義貞の分倍河原での決戦で、大敗した新田軍が敗走の際、国分寺に火を放ち諸殿堂はことごとく炎につつまれ崩れ落ちてしまう。 見回すとポツンポツンと礎石が規則正しく並んで残っている。この大石一つ一つに巨大な柱が立っていたのだ。その上に梁があり屋根があり瓦があり、床板は磨きぬかれ、多くの僧侶達が立ち働いていた。何百年もの間。読経の声が聞こえてきそうだ。これもまた盛者必衰。 武蔵国分寺跡から西に府中街道、JR武蔵野線を横切ると国分寺尼寺跡。ここにも礎石がある。こじんまりと可愛いものだ。ここには尼さん達がいた。法華経を読誦し護国を祈りながらも、武蔵野の月を野の草花を愛でたのではなかろうか。国分寺僧寺に比べあまりにささやかな規模の国分寺尼寺の礎石を眺めていると、そんな風に感じる。その尼寺跡の中心部を伝鎌倉街道が貫いている。つまり、鎌倉時代にはすでに国分寺尼寺は廃寺となりその形すらもなかったものとみえる。尼さん達はどこへ行ったものか。尼寺跡に隣接して黒鐘公園がある。今までまったく気にも留めなかったが、この黒鐘という名。何か曰くがありそうだ。いつの時代かに焼けただれた鐘が掘り出されたのだろう。それは国分寺尼寺のものと考えられる。京だけではなく、武蔵の国も豪族達の割拠で戦火が絶えなかったろう。 この辺り夜のランニングにはかなり勇気がいる。公園には池があり柳もゆれている。尼さん達の霊に応援されたらたまらない。今夜のランニングは国立大学通りにしよう。 | |
| 08-0034 | |
| ◆予科練 ◆長良川 ◆08年09月23日 08:55 | |
| 僕は戦争中に生まれたので予科練を見たことはない。ただし、元予科練なら見たり話したりしたことはある。 それは戦後間もない昭和二十四、五年、僕が小学校の一、二年生の頃のことである。当時、僕の家の前に小さな学校があった。といってもその学校というのが小学校でもなく新制中学でもなく、戦後の学制改革のため空きになった学校のようであった。小学校の建て増しのため、四年生だけが一年間その校舎に移ってきたり、また一時期、そこで夜間学校が開かれていた時もあったが、それ以外はたいてい空き教室になっていた。それでも学校には給仕、いまでいう管理人が一人雇われていた。僕が覚えているその学校の最初の給仕は、山田君といってまだごく若い子で、僕たちのお兄さんのような感じの少年だった。それでも、山田君は僕たちよりかなり年上だったので、一緒に遊んだことは一度もなかった。ただ、彼は将棋が強いということは知っていたが、「僕は将棋が好きで、新聞の将棋欄で研究しているんだ。」と他の人に言っているのを聞いたことがある。ある日、山田君が僕の家の前の校門のところで、もう一人の僕より大きい子供と話をしているのを聞いていた。僕はまだ小さすぎて、何を話しているのかよく理解でなかったが、山田君に「僕の服のボタンを数えてみろよ。七つあるだろ」といわれたその子が山田君の服のボタンに指をあてながら一つ、二つと数えていって、全部で七つあることを確かめたのを覚えている。数え終わって山田君が「ほら、言ったとおりだろ」というとその子は何も言わずに納得のそぶりをみせた。僕はそれが具体的に何を意味するのかはわからなかったが、少なくともそれは尊敬すべきことなんだというその場の雰囲気を感じ取ることはできた。その時の山田君の服の色はたしか薄い灰色だったと思う。しばらくして山田君はどこかへいってしまったようで、僕は七つボタンの件以来、彼の姿を見かけたことはなかった。彼は今頃どうしているんだろう。 その後、僕はもっとずっと大きくなり、家にあった古いレコードの中に、「荒鷲の歌」という「ニッチク」のSP盤を見つけて、それをレコードプレーヤにかけてよく聞いていたことを思い出す。「ニッチク」というのは「日本蓄音機・・・」の略で、戦時下に合併させられてできたレコード会社のようだ。このレコードはB面が「若鷲の歌」という勇ましい軍歌で、藤山一郎が唄っていたことはよく覚えているが、A面の「荒鷲の歌」は誰が唄っていたのかよく覚えていない。霧島昇か灰田勝彦だったかもしれない。それはともかく、この古関裕爾作曲の歌は短調の曲であるためか、歌詞の内容は勇ましいにもかかわらずどこか哀調を帯びて日本人の心情にぴったりくるものがあり、少し長めのカッコいい前奏とともに僕はすっかりその歌を覚えてしまった。そしてその頃にはこの歌やそのほかの、それまでに読んだり教わったりしたいろいろの知識から、山田君の七つボタンの意味がよくわかるようになっていた。 それからまた、長い年月が経ち、僕はある会社のエンジニアとして働いていたが、ある時、川崎製鉄水島製鉄所の製鋼工場に設置した転炉廃ガス処理装置の集塵性能を測定する仕事をしていた。その際、測定器具の運搬や測定作業そのものをやってもらうための人夫を雇っていたのだが、煙突の途中に吸引管をつっこんでサンプルを集める間は何もすることがなく、高いところから周りの景色を見ながら、僕よりもかなり年配の人夫と雑談をしていた。その際、彼は自分が元予科練だったことを打ち明けた。彼の話によれば、予科練を卒業したのか途中で課程を打ち切って動員されたのかよくわからないが、終戦時に彼は奈良航空隊にいたとのことである。といっても、飛行機に乗ったことは一度もなく、天理教の宿舎に寝泊まりしながら陣地構築など、飛行機乗りには関係のない仕事ばかりをさせられて終戦になったという。そして終戦時には、終戦を受け入れず、航空隊だけで決起する指令が回ってきて部隊は混乱し、動揺と緊張が走ったことなどを話してくれた。彼の話によれば、中学で予科練の募集があったときは、皆我も我もと応募してとても応募せずにはいられないような雰囲気だったということである。飛行機に一度も乗らなかった予科練の彼も、一種の戦争犠牲者だったといえよう。 | |
| 08-0033 | |
| ◆書込みシステムを変更しました! ◆事務局 ◆08年09月19日 10:12 | |
| 書込みシステムを次のように変更しました。 ●ハンドル名で書込む場合:自動的にハンドル名が表示されます。変更不可。 ●別の名前で書込む場合 :書込みを事務局で代行します。本文と名前を事務局 までメールで送ってください。 | |
| 08-0032 | |
| ◆予科練 ◆とほる ◆08年09月18日 20:31 | |
| 私の兄は昭和3年生まれ。カムイさんと同じように予科練に行った。旧制中学3年からだった。父は満州、母は止めようがなかった。 つっこんでいく飛行機もなく無事に帰ってきたが、その後ぐれた。はぐれたと言った方が良いかもしれない。まだ10代なのにカストリ焼酎を飲んで大暴れした。同じような仲間とブロウカーみたいな事をやり、喧嘩ばかりしていたらしい。予科練帰りには怖い者がないと言っていた。焼酎の飲み過ぎが祟り、二十歳ちょっとで死んだ。 母はどうせなら、つっこんでお国のために死ねば良かったのにと、兄を思い出す度に涙を流していた。 カムイさんは戦後にきちんと適応できた。私の兄とどこが違ったのだろうか。 生きていれば、兄もカムイさんと同じように今頃碁を打っていただろうに。 | |
| 08-0031 | |
| ◆東京近在便り 〜その六〜 ◆谷口 ◆08年09月10日 13:27 | |
| 風の音にぞおどろかれぬる という頃。 東京近在に膝の痛き男ありけり。積年の過労が溜まったわけではなく、ただこの数ヶ月の無理がたたったよう。肌色の膝サポーターを着け、そろりそろりと歩く後姿こそ哀れなり。昔とった杵柄も朽ち果てているのを省みず、○○の冷や水をザアザアとかぶりまたガブガブと飲み、みんなに無理だけはするなと言われても聞く耳持たずの馬の耳、走るに走ったこの三月、朝晩ガムシャラ500km、挙句の果ての膝サポーター、肌色ワイド版こそ惨めなり。 立ち上がれば冷や汗が出、そろり歩けば顔しかめ、突貫仕立てのマラソンランナー、自業自得の成れの果て、盛者必衰会者定離、ついでに踵も痛みだしお尻で降りる階段に、秋の気配が忍びよる。 東ニストレッチガ良イトイフ人アラバ イッテ痛イホド体ヲネジマゲラレ 西ニヨクキク鍼灸院ヲショウカイサレレバ イッテ恐ロシサニ先端恐怖症デストゴマカシ 北ニオンセン療法ノピカイチシセツアレド イッパク三万エンハチト高スギルデト言イ 南ニ私ハコレデ治シマシタトイフ人アラバ アッテ聞クトイツノマニカ怪シゲナ宗教ダッタリ 結局、少しずつ走り歩き走り歩きで痛みと仲良くしていくしかないと悟りとぼとぼ動き始める。 しかし光陰は容赦しない、迫り追越し追い抜き先を疾走していく。そして9月14日(日)、生涯二回目のマラソン大会はもうそこまで迫っている。ゼッケン番号は1235、諸々の案内通知も届いた。 ただ市民マラソンランナーに切羽詰った悲壮感はない。誰も期待していないから背負うものもなく、晴れがましさもなく、順位も関係なく、ましてや選手生命がどうのこうのもなく、完走を願ってひと頑張りふた頑張りするだけだ。だから自分のためだけに走りぬいて、痛くても這ってでもゴールに帰ってくる。 今回は長野県茅野市の『縄文マラソン』。なぜ縄文かというと小学生か中学生の時の社会の教科書の口絵の写真を思い出して欲しい。お腹とお尻の大きな縄文時代の女性の土偶があったはず。あれは国宝で縄文のビーナスと呼ばれているのだが、その土偶が発見されたのが茅野市にある棚畑遺跡、その近辺を走るので『縄文マラソン』。今回も前回の松川町マラソンと同様に10kmレースにエントリーした。 膝と踵の上方の痛みも、付き合っていれば緩和できる方法が徐々にわかってくる。どちらの痛みへの対応も走る前と走った後のストレッチが基本だが、ちょっとした生活習慣を変えるだけで効果がある。たとえばイスに座ったときの足の組み方、誰もが一定のはずだがこれを逆にしてみる。靴底の減り具合をみて歩き方を矯正してみる。歯をきっちり治す。等々。こういうことで体のバランスが正常に近くなり、走ることによる各所の負担が均衡のとれたものになり、痛みの刺激を和らげてくれる。 歳がいってくると、何に対しても宥めすかすことだとわかったようなことを言うようになる。これははっきりと老化現象といえるが、ただ肉体の痛みには宥めすかし法は有効だと思う。痛みと好い付き合いが出来れば、関節炎と肩組んで「お前百までわしゃ九十九まで」と棺桶目指して二人三脚の旅も可能というもの。休むより走ることが大事だとも思っている。体は使わなければ蝶番がきしみ固まってくるのだ。 Googleの距離測定ツールを使って5km、10km、20kmの練習コースを2パターンずつ決めている。20km東コースだと国分寺の自宅から武蔵境の国際基督教大学の裏門まで走って帰ってくる。西コースだと五日市街道から新奥多摩街道宮沢東交差点に出て国立回りで帰ってくる。20kmを走るのは月に3回くらいだが、これが今の限界だ。家に着いたら口もきけない。来年の2月15日は青梅マラソン。多摩川沿いの30kmレース。宥めすかして痛みともっと深い付き合いをしないと走りきれない。今回のレースはその試金石。50分を切ることが目標。日中は曇り空でせめて25度以下がありがたい。夕からは雲がとれ十五夜の月、どんな思いで見上げていることか。あと五日。今夜は痛みと一杯やろう。 | |
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| ◆九段 ◆カムイ ◆08年08月17日 08:36 | |
| 先の世の 悲しき思い 残れども 心まつりし 靖国の宮 海軍甲種飛行予科練習生。 私は最後の予科練だった。 遠い過去から、時空を旅してきた、スピリットキャラクター”さい”のように、 私も時空を旅してきた、”時の旅人”まだ青春である。 | |
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| ◆カムイ様七夕を読んで ◆ヒロミ ◆08年08月09日 12:04 | |
| 七夕を読んで、故郷の田舎にいた子ども時代、正月がすぎてまもなくの頃の「もぐら打ち」という行事を思い出しました。わら束に、竹などの芯を入れて(音を良くするため)大き目のバット状に固く縛ります。それを持って夕方から各家々の庭先で「もぐら打ちはどっこいしょ、もぐらは出ーていけ」などとはやしながら地面をバンバン打ちますと、その家の人が出てきて鉛筆やお菓子を平等にくれます。そして、次はどこ行く、あそこはケチだ、あそこがいい、などとガキ大将がいいながら5〜6軒回ると暗くなり、わら束も壊れて、収穫に満足して帰ったのを懐かしく思い出しました。 故郷のどんど焼きも忘れられない郷愁です。孫に経験させてやりたい思いです。 | |
| 08-0026 | |
| ◆七夕 ◆カムイ ◆08年08月08日 09:50 | |
| 北国の七夕は一月おくれである。 短冊に願いを書いて笹につるす。 ”笹に短冊七夕祭り、ローソク一本ちょうだいな。”子供達は近所の家を訪れて、 ローソクや菓子をもらってまわる慣わしがある。 北国の子供達の言い回しは、 もっときつい。 ”ローソクだせ、だせよ。ださねばかっちゃくぞ。”品の無い 言葉にきこえるが。 外国にも似たような習慣がある。 月日は異なるがハローウイン。 かぼちゃをくりぬいて面をつくり、子供達は、他人の家を訪問し、”トリック、オア、 トリート”と叫んで、菓子をもらってまわる。 いたずらされたいか、もてなすか。 意味は、北国の子供達の方に近い。 対局中、私は、ふと、打った一手に、同じような願いをこめている思いをもった。 ”得をさせてくれるか、攻められたいか。”だが、対戦相手からは、どちらも拒否 されるのである。 | |
| 08-0024 | |
| ◆東京近在便り 〜その五〜 ◆谷口 ◆08年08月04日 15:06 | |
| 暑かった。長かった。 前日に梅雨が明け、スタート1時間前の9時を過ぎた頃からは風もなく、頭から太陽にじりじりと焼かれる感じで、わずかな木陰を探して体の消耗をできるだけ抑えていた。それでも汗は流れる。初めての町、初めてのロードレース、何か自分だけが浮き上がっているようで不思議な感じだ。バナナを食べる。 8時過ぎに中央道の松川ICで降り、長野県下伊那郡松川町の会場に着いた頃はうす雲もかかり、暑さはそれ程でもないと思っていたのだが。 松川町は北から南に諏訪湖を発した天竜川が流れ、川の東西に広い段丘が形成され、町のほとんどは傾斜地になっている。その傾斜地を利用して春のイチゴからモモ、ナシ、リンゴ、ブドウ、柿など果物の栽培が盛んな所だ。よって今回の大会の正式名称も「第二回南信州まつかわロードレースinくだものの里まつかわ」となっている。種目は小学生の3km、中高生・一般の5km、高校・一般の10km。メンバー表を繰ると参加者は長野、愛知、岐阜がほとんどで、東で遠いのが栃木県、西は兵庫県。総参加者は6百数十名のこぢんまりとした大会だ。運営はもちろん町の人のボランティア。自分としては初めてのことだし、ちょうどこんな規模の大会を探し選んだ。 スタート待ちの時間、暢気にバナナを食べながらあたりの参加者に目をやると、何か違いが、違和感を覚える。なんなんだろうとぐるりの人達をよくよく観察すると、おでこも顎も肩も胸のあたりも腹も腰も膝も足首も靴先も、それらがすべて鋭角なのだ。がっちりしている人でもしっかりと鋭角でスッとしている。体のつくりがまったく違う。こちらのスポーツ履歴はというとサッカーと登山、どちらもガニ股系の最右翼、かたやランニングはスッスラット系。基本体型が大きく異なるのだ。豚がチーターの国に闖入した感じ。わが身を見てしみじみ思う。腿が太くて丸くて白い。それがランパンからぬっと二本出ている。Lサイズのランパンにもまったく余裕がない。にわか仕立て、付け焼刃の悲しさ。バナナ半分を残した。 スタート15分前。10km組集合。男女・年齢関係ない。二百数十名。コース説明があるが初めての土地、西も東もわからない。下って上って下って上っての連続のようだ。5分前スタートラインに移動。太陽は真上。この時間近くの多治見や飯田では35度に迫る気温。湿度50%弱。帽子を被る。これも初めて。 スタートの号砲。一気に500mの下り坂。飛び出しは2列目にいたから最初の瞬間は20位ほどか。前の人の背中がどんどん先に伸びていく。左右の脇から何人もの人が軽快にすり抜けていく。その背中がすぐに小さくなっていく。下りでも息が苦しい。ふくらはぎ、腿が重い。練習のときも出だしはいつも苦しい、徐々に楽になるからと思って長い下りを我慢する。帽子の中がすでに暑い。脱ぎ捨てたくなる。膝の上の筋肉に疲労が溜まっていくのがわかる。左折して上りに入っていく。細い自動車道だ。要所要所でボランティアの人達が誘導してくれる。得意だと思っている上りでもペースがあがらない。苦しい。すでに喉がカラカラだ。次々に追い抜かれていく。1kmも行かないうちに汗が吹き出る。水が欲しい。川を渡ったときには飛び込みたくなった。上りが続き、スタート地点近くまで一旦戻り、そこから中央道に平行して南に走っていく。日陰は一箇所もない。風もない。アスファルト道に陽炎が立つ。ずっと先の先まで人の背中が小さく続いている。4kmあたりの給水所が見えてくる、目指す。近づく。頑張る。両手に紙コップをもらう。テレビのマラソン中継の選手のように走りながら飲む。むせる。苦しい。とぼとぼ走り、小さく飲む。頭にかける。腿にかける。沿道に空の紙コップを捨てるのは、後始末の係りの人に申し訳ないが捨てる。暑い。止まってはだめだ。止まったらおしまいだ。5kmあたりで自動車道から外れて、りんご畑を下っていく。リンゴの木はせいぜい2m。木陰がつくれない。首の後ろが暑い。帽子を反対に被りなおす。とにかく足を前に出す。腰ががくんと落ちているのがわかる。あえぎあえぎあえいでいる。止まれない。中央道の側道のような農道を今度は上っていく。給水所がある。6kmあたりか。少しずつ少しずつ口に含む。生涯2度目の給水は成功。側道から右折して斜面を西に登っていく。ここは上るではなく、登るだ。長い、長い登りだ。ここにきて初めて一人二人と歩いている人を抜かしていく。歩かない。止まらない。「峠まであと200m」の声が沿道から聞こえる。よちよちと走る。頭から水を被りたい。谷川に飛び込みたい。もう半分は過ぎたんだ。もう帰り道なんだ。登りきれば、今度は下る。足がわずかにもつれている。用心して下る。リンゴの木にリンゴがなっている。まだ小さいリンゴがいっぱいなっている。目をあげればこの位置からだと仙丈ケ岳が正面に見えるのではないか。でも目が上げられない。体全体が足元に落ちている。遠くが見えない。自動車道に戻ってきて折り返していく。果樹園からホースを引いているおじさんが「かけるか?」と目で合図してくれる。とぼとぼと近づいていって帽子をとる。頭、顔、肩、背中に清涼が走る。たれた水が靴をぬらす。ずぼずぼと靴が鳴るが元気をもらう。沿道の物陰や木陰から声援を送ってくれる町の人が、あっちに二人、こっちに三人と見える。長い長い平坦でない直線道を走っていく。すべてが揺らいでいるようだ。自分の速度がわからない。暑い。3kmコースの折り返し点を通過する。頭で考える。ということは、あと1.5kmだ。まず500mを走りきるんだ。ランシャツもランパンも靴下も靴も汗と水でぐしょぐしょだ。どんな顔をして走っているんだろう。きっと悲壮な感じだろうな。そう思ったら笑いがでた。よし、もう500mはがんばれる。暑い。さっきかけてもらった水が熱湯になって体にまつわりついている。一足一足、足を前に出す。最後の給水所が見えてくる。空色のTシャツを着た少年がバケツとひしゃくを持っている。帽子をとる。どっとかけてくれる。元気をもらう。最後だ。最後だ。最後の500m。足を前に前に運ぶ。長いなぁ。こんなに10kmが長いのか。長い。暑い。足がうまく運べない。最後の左折。上り200m。前に人はいない。後ろにも人の気配はない。あと100の声がかかる。膝を前に出し、手を意識して強く振る。気持ちだけのラストスパート。ゴールのテープが見える。 距離があと500m長かったら完走できていないだろう。翌日も水分以外、体が受け付けなかった。 完走証には、記録:57分9秒、総合順位:101位とある。 | |
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| ◆MLBの旅(07.6.10〜6.22)-その7 ◆江戸 ◆08年07月29日 14:56 | |
| 3 トロピカーナ・フィールド 6月14日、朝からやや曇り気味でしたが、今日はドーム球場ですから天気は観戦には関係ありません。今日のゲームはタンパベイ・デビルレイズが本拠地トロピカーナ・フィールドにサンディエゴ・パドレスを迎え撃つ3連戦の第3戦。おとといからの勝敗は、タンパベイから見て @ 11−4、A 0−9ですから今日はいわば決勝戦。 Kと私とは3年前にこのカードを観戦しています。場所はサンディエゴで、そのときは上り調子のタンパベイが勝ちましたが、パドレスの大塚が負け試合ながらクローザー役を立派にこなしたのを記憶しています。今回は日本人選手は、両チームを通してタンパベイの岩村明憲ただ一人です。 試合開始前は球場内探索が私たちの定石ですが、ここの目玉はチーム名の「デビルレイ(”Devilray”)」の水槽です。「デビルレイ」はランダムハウス英和大辞典によると「オニイトマキエイ」と訳され、体幅7メーターを越えるものもあるが、性質は温和、と説明されています。なぜDevilなのか。”Ray” は「えい」(漢字で鱏)で、欧米では鱏は「悪魔の魚」とされる・・・、これは「ジーニアス英和辞典の説明です。ともあれ、バックスクリーンのすぐ右に直径2m程度の水槽に菱形で平べったい小型の鱏が何匹も泳いでおり、整理券(無料)を配って順繰りに見せてくれます。何とも気の利いたサービスです。 チームの2007イヤーブックを売っておりましたので求めました。中身はチーム発足以来の監督、コーチ、全選手を網羅した写真付きの名鑑ですが、チームの歴史が浅いからこそできることです。たとえば、2006年に西部ライオンズから入団した森慎二投手、この選手のことは忘れていましたが、キャンプ中の怪我で公式戦に一度も登板せずにチームを去りました。その森選手ですら6行ほどのコメント付きで写真が掲載されています。いわんや野茂投手の扱いはウエイド・ボッグス、ホセ・カンセコ 並みの大きさです。野茂は2005年に4ヶ月在籍しただけで、5勝8敗、防御率7.24とチームに大きな貢献をしたわけではありませんが、それでもこの扱い。特異の経歴や、失敗も多いが真正面から挑みかかる姿勢がアメリカ人の共感を得ているのでしょう。そういえばこのときを最後に、野茂はMLBのマウンドに現れていません。この名鑑を眺めていると、今や他のチームの中核として活躍している選手や、功成ったベテラン選手がある時期このタンパベイ・デビルレイズに籍を置き、活躍したさまがよくわかり、トレードの激しいMLBならではの興味がわいてきます。 4 サンディエゴ・パドレス7−1タンパベイ・デビルレイズ ウイークデイにデイゲームということは、今日は何かの祭日なのですがわかりません。開門と同時に入りましたので、試合開始まで十分時間があります。Kと私とが魚を見ようとバックスクリーンの方へ探検に出かけているとき、M氏は両軍のベンチ付近へ偵察に出かけます。 M氏談「試合前の練習量が少ないですね。前日ナイターで今日デーゲームのためかも知れないが、日本に比べての練習の軽さに驚きます。岩村のサインを貰うつもりでベンチ近くのスタンドで待っていましたが、グラウンドに現れたのが試合開始5分前位だったので結局貰えず。代わりにグローバー投手のサインを貰いました。この選手はリリーフに登板しましたが、後日、06年読売巨人で20試合に出て、5勝7敗の成績であったことが分かりました。」 私は日本の野球には疎くなり、このJohn Gary Glover 投手の巨人での活躍ぶりは承知しておりません。統計資料によると、MLBでの通算成績は27勝23敗、防御率5.00。MLB4年目のホワイトソックス在席時には先発5番手に擬せられるまで成長したが、その後は伸び悩み気味といったところがうかがえます。今は日米間の選手の交流が多く、レベルを比較する材料に事欠きませんが、一流選手だけでなく、こうした中堅どころの選手をキーにして比較するのも一興かと思い、調べてみた次第です。 試合は1回表にパドレスが1点を先制したまま膠着状態、双方の先発投手は役割を終えて降板。デビルレイズは8回表、無死二塁の場面でM氏がサインを貰ってきた前巨人のG投手を2番手として送ります。この前巨人氏、一昨日は2点リードの8回に登板し、3人を片付け、今期3つ目のホールドを得たばかりなのですが、今日はどうしたことかいきなり滅多打ちに会い、4安打3失点ですごすごと降板。勝負はここで決しました。 このゲームに限ってはG投手は戦犯でしたが、同投手の名誉のために言えば、今シーズン終了時点での成績は防御率4.89、6勝5敗、投球回数はチーム6番目ですから合格点です。チームは投手陣が弱体ですから、来期は先発を含めて期待できるでしょう。 (G投手の記述に力が入りましたが、同投手に関する情報はM氏から後にもたらされたもの、観戦中はこの事実は知りませんでしたから、そんなに気合を入れて見ていたわけではありません。) MLBの選手の異動の激しさは毎度見るところですが、3年前から本日まで継続して両チームで活躍している野手はたった3名(デ軍クロフォード、パ軍ジャイルス、グリーン)。つまり3年も経つとチームの様相が様変わりしてしまうのです。そういえば今日デビルレイズの敗戦処理に出てきたウィスタシックは1週間前にオークランドを馘首されて入団したばかり。そして3年前に見たこのカードではパドレス側の敗戦処理投手でした。試合を見ていても、「あの選手は前にはあそこのチームにいたのでは?」と思うケースは枚挙に暇はありません。 我々の期待の岩村選手は現地では「アキノリ」と親しまれている模様。打率も3割を超えて好調ですが、今日は4−1で特段のことはなし。守備では難しい場面で三塁にゴロがよく飛びましたが、無難に捌いてこちらも特段のことはありません。 結局この3連戦は遠来のパドレスが勝ち越したわけですが、ナ・リーグ西地区の首位をいくパドレスを相手に、ア・リーグ東地区最下位のデビルレイズには荷が重かったと言わざるを得ません。 ゲームが終わって出てきたのが16時ごろ、車ラッシュの中で空車が見つかりました(夜だったら車が居たかどうか、見つかったかどうか何ともいえないところです)。もう観光するところもありませんので、再び“The Pier”へ向かい、昨夕のワンフロアー下で軽食を取ってホテルへ戻りました。 翌日の出発は朝6時です。「念のため、タクシーの予約をしておこう。」ぐらいのつもりだったのですが、これが良かった。翌朝出てみるとフロントもロビーも閉鎖されています。ホテルのフロントは24時間開いているのが私たちの常識ですが、アメリカの田舎ではそうは行きません。裏木戸みたいなところを通って表へ出ますと、予約のタクシーがオンタイムでやってきました。「予約は朝でいいだろう。」などと言っていたら混乱するところでした。 早朝のフロリダに別れを告げ、次の訪問地ヒューストンへと向かいました。 | |
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| ◆MLBの旅(07.6.10〜6.22)-その6 ◆江戸 ◆08年07月17日 10:42 | |
| W フロリダ 1 セントピータースバーグ フロリダにはフロリダ・マーリンズ、タンパベイ・デビルレイズの新興二チームがあり、できることなら能率よく二箇所を廻りたいと考えましたが、距離的にも交通の便でも同じ州だからといって便利なことは何一つありません。マーリンズの方はレンタカーを使わなければボールパークへ到達することは全くムリ。しかもマイアミ近辺の一部地域はレンタカーに対しても治安上の問題があることなどがわかりましたのでこちらはあきらめ、フロリダではデビルレイズを観戦することとしました。インターネットによるチケットも、ネット裏の最高の場所が四人分まとめて1回のアクセスで取得できました。 タンパベイという地名から、野球場はタンパ国際空港から遠からぬところだろうと決めてかかっていたのですが、調べてみると空港から車で1時間弱、タンパ湾を渡った西側のセントピータースバーグという田舎町にあります。湾を渡る道路は両側の海面が高く、ミニ・キーウエストといった趣です。途中の風景は絶景ですが、ホテルはダウンタウンを通り越した殺風景でほこりの舞い立つような内陸部にポツンとあって、周囲には建物らしきものはありません。ホテルの確保に難渋したことは前に述べたとおりですが、当初もくろんでいた野球場から徒歩圏内のホテルが実は廃業していたのがけちのつきはじめで、インターネットにも「あっぷるほてる」にも袖にされながらも、野球場まで車で30分ほどの宿が何とか見つかったのですから、もって瞑すべしといったところでしょう。 旅装を解いてすぐタクシーでセントピータースバーグのダウンタウンに向かいました。まず商工会議所に併設されている観光案内所に立ち寄り、Looper というトロリーで一時間ほど市内を見て回ります。ダウンタウンと言ってもここは完全なリゾート地。商店街らしきものはありません。道路は広くてよく整備され、緑が整然と並び、東側を見れば雄大なタンパベイの天然ビーチにヨットが浮かびます。下調べのときに名前の出ていた豪華ホテルや美術館がいくつか、そのくらいがだだっ広い町の中心部のすべてです。 地理的には町の中心とはいえませんが、案内所の辺りから東側にタンパ湾に突き出すような形で道路が伸びており、1kmほど行った先端にその名も“The Pier” という複合施設があります。その最上階(4F)にあるCHA CHA COCONUTS というカリビアンレストランを案内所で教えてもらったので、そこで早めのディナー。オープンエアのなかでタンパ湾が一望に見渡せ、名も知らぬ鳥が啄むのを眺めながらゆったりと過ごしましたが、時計をみるとまだ6時前。「今日は野球のナイターがあるはずだね。チケットはないけどダメモトで行ってみない?」とKの提案にみな賛同し、早速出かけることにしました。 2 「おまけ」の野球観戦をあきらめる 外に出てすぐタクシーを拾って・・・、というのが普通のパターンでしょうが、フロリダのいなかではこうはいかないことを改めて悟りました。町の中心まで歩く間もタクシーなど全く見かけません。先の観光案内所がまだ開いておりましたので呼んでもらい、指定の場所で待つことになりましたが、なかなか時間通りにはやってきません。待つ間もタクシーの姿はどこにも見かけません。ようやく迎えのタクシーに乗ったときには7時半を過ぎておりました。 車中での会話。 私「ずいぶん待たされたねー。こんな交通事情では帰りの足が心配だね。このままホテルへ帰ったらどうだろう。」 K「いや、大丈夫、何とかなるよ。」 S「慎重にいこうよ。客待ちのタクシーがいたって、真っ暗な夜で見つけにくいし、ムリはよそう。」 衆議一決、というわけではありませんでしたが、妥協の産物で野球はあきらめ、ホテルへ戻りました。 「あの葡萄は酸っぱい。」と言った狐の話みたいなものですが、この夜の試合は地元のタンパベイが1回表に5点を取られ、9対0で負けていますので、私たちが入場できたとしても8時ごろでしょうから、その時点では大勢は決しており、ゼロ行進の凡戦を見る羽目になっていたでしょう。 野球観戦はナイターとし、昼は目いっぱい観光するのが効率的、ここタンパでも当初はこのゲームを観る計画でした。ところが「地球の歩き方」に「野球場は徒歩圏内」とあったホリデイ・イン系のホテルが何らかの事情で系列を離脱していたためアクセスすらできず、野球場近辺にはホテルはないことがわかりました。ここからホテル探しの難渋が始まったのですが、偶々翌日にデーゲームが組まれておりましたので、帰路の足の確保のことを考え、計画を変更した次第だったのです。 何ゆえにこんなところに何万人も収容する施設があるのか、アメリカが自家用車社会であることを象徴する事例でしょう。ここへは遠くマイアミあたりからも日帰りの観客も多いと聞きます。そしてここは全米一駐車場が充実しているボールパークだ、ということです。 私たちが最後に訪れるテキサスレインジャーズの球場は、全米一アクセスが不便なのだそうです。 | |
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| ◆MLBの旅(07.6.10〜6.22)-その5 ◆江戸 ◆08年07月10日 11:03 | |
| V フィラデルフィア 3 “Historic Philadelphia” 観光 翌6月12日も快晴。今日は「アメリカ建国の歴史をたどる」と言っては大げさですが、疲れの出ない範囲で街中を観光しようというわけです。 “Historic Philadelphia” はフィラデルフィア観光のキーワードらしい。そのなかで本日の我々の観光の目玉は「リバティ・ベル・パビリオン」。リバティ・ベル(自由の鐘)は高さ1.2メートルはあろうかと思われ、その上部から下方に向けて大きな亀裂が入っているのが「売り」のようです。 アメリカ建国の歴史はこの鐘とともにあり、鐘には亀裂が付いて回るといった様相ですが、そもそも1753年に州議会がロンドンのメーカーに発注した鐘が最初の一発でひび割れ、 直ちに鋳造し直した鐘は音色が好ましくなく、今に残るのは三代目、といった按配です。その三代目は1776年の独立宣言を初め、歴史の節目に活躍しましたが、いつのころからか再びクラックを生じ、1846年のワシントン生誕記念日に数時間にわたって鳴らされた際、亀裂が広がり、以後、この鐘の音を聞くことはない、と説明書の語るところでした。 続いて立ち寄ったのは「カーペンターズ・ホール」。1724年に創設された大工さんの組合が建設・所有するホールです。組合は建築家としての指導性と同時に、イギリスの植民地からの独立を目指す急進派のオピニオンリーダーとしてこのホールを1774年の第1回大陸会議の会場に提供し、独立への道筋をつける役割を果たした、とあります。1770年代の建築物としての芸術的価値と、歴史遺産の担い手としての値打ちを併せ持った建物でした。 「インディペンデンスホール」の見学は時間制のツアー形式を取っており、時間のない私たちはパス。 1km ほど南に“Jim's Steaks”という有名なフィラデルフィア・チーズステーキ店があるとのことでしたので、4番通りを南下しました。独立記念公園からサウスストリートへの道は車の通行も少なく、両側は緑が茂り、都市の散歩道としては快適です。たどりついた件の店は椅子の数もまばらなファーストフード店。若いバックパッカー向けのお店とお見受けましたので敬遠し、Jim からJon に乗り換えて“Jon’s Bar & Grill” でランチ。 タクシーで市の中心街まで戻り、市内見学。次いで市庁舎タワーの166m の展望台から市内を一望する予定でしたが、これまた2時間待ちの予約制。係りのおばちゃんは神戸に行ったことがあるとか大はしゃぎでしたが、エレベータの臨時手配というわけにもいかず、少しだけお相手をして退散、市内を逍遥しながらホテルに帰り着きました。夕方、昨日と同じ時間に同じような驟雨がありましたが、この時期この季節の決まりごとのようです。 夜はすぐ近くの ”DiNardo’s” というシーフード。カニ、エビ、貝類が豪快な形で出てきます。こういうのは日本ではなかなかお目にかかれません。 フィラデルフィア、歴史の町としての落ち着きが町全体を包んでおり、ちょっと中心を外れれば緑が豊か。訪ね残した数々の歴史の館、フィラデルフィア美術館、ペンシルバニア大学、動物園などに思いを残しながらの二日間の滞在でした。 | |
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| ◆東京近在便り 〜その四〜 ◆谷口 ◆08年07月03日 10:46 | |
| 街中を走る人がいる。 雑誌『ランナー』から飛び出してきたような人もいれば、願メタボ脱出の人、音楽聴きながらのダイエット小娘、仲良し歩道占領おばさん達、闘魂スポーツ中高校生、歯を食いしばって身悶えしながらの中年男性、健康のために走るのをやめなさいと注意したくなるような冷や水老人、時代錯誤の日の丸鉢巻おばさん、ジャージのフード被ったラップ男、シルベスター気取りのロッキー男、ちょっと円谷さん似、まるごとナイキ、黒ずくめの紫外線100%カット目だけお姉さん?、2ℓペットボトル持ちながらの外人・重いだろナ、ふくらはぎサポーター足引きずりおじさん・休んだら、ただの自己陶酔女、汗だくムーミン男、赤信号足踏み男・青になっても走り出せない、街中でストロー付背負いバッグ男・チュウチュウポカリ吸うな、サングラスだけ高橋尚子、夜でもクッキリ反射板キラキラ男、よせやァ汗かきアベックペアルック、誰も見てないぞお前のことだ、何を背負っているのかやつれ頬こけ十字架男、十人十色、百人百様、種種雑多、玉石混淆、魑魅魍魎、いるわいるわ。 その仲間入りをした。 上の例でいうと、歯を食いしばり身悶え60%+やつれ頬こけ十字架30%+誰も見てないぞお前10%で、今、ぼくは成り立っている。 ただ走るなど、なんと馬鹿なとずっと思っていた。冬のクロスカントリースキーの体力づくりに始めた街中のランニング。この単調極まりないと思っていた両手両足もくもく運動が、付き合うとなかなか底が深い。面白い。のめりこむ。抜けられない。雨の日を恨む。ちょっと中毒症状。 何が面白いのか。 一言でいうと、「走れた。走れる。もっと」 半年前まではまともに100mも走れなかった。もうこんなものだと思っていたし、どうにかしようという気持ちも持てなかった。きっかけは初参加した3月のクロスカントリースキーの大会。坂が登れない。息が切れてスキーが止まってしまう。あえぎあえぎ5kmを完走したものの我ながら情けなかった。が、その中に喜びの種をみつけた。何十年ぶりかにスポーツ大会に参加できた喜び。どんなスポーツでも公式な試合に出場することは格別だ。緊張があり、晴れがましさもある。大会に参加できる喜び。これが根っからのスポーツ好きの琴線にふれたのだ。「よし、来年も出る。来年こそは!」という気持ちになった。 そして走り始めた。 まずは近隣を一周。300mほど。これが完走できない。二度は立ち止まる。走る、止まる、歩く、走る。週に三日以上、走ることを決める。 日本の景観をブチ壊しにしている電信柱も、にわかランナーには役立つことがある。目標になる。あの電信柱まで。もう一つ先の電信柱までというように。すると三日目には300mが走れるようになる。300m走れれば、近隣脱出で駅まで走ってみる。こうやって、300mから1km、3km、5kmと走れる距離が伸びてくる。出来なかったこと、あきらめていたことを、少しずつ確実に体が可能にしてくれていく喜び。 そうなると、大会で走ってみたくなる。間違っても上位入賞とかそういう野望はない。にわかランナーが目指すのは完走だ。走りきりたいのだ。大会参加者の一人として走りとおしたいのだ。スポ根が入道雲の如くむくむくと湧き上がってくる。こういう時に、待ってましたとばかりに両手を開いて待ち構えてくれているツールがある。インターネットだ。 全国のランニング大会の情報があり、エントリー・参加費の支払いまでネット上で可能だ。先日、ランニング大会情報で、長野県・7月と検索し「小布施マラソン」や「おんたけウルトラレース100km」など10ほどの大会の検索結果の中から、条件の合う「南信州アルプス松川ロードレース」10kmにエントリーした。7月20日(日)10:00スタート。初レース。きっと梅雨も明けた炎天の下、ゆがんだ顔であえいでいるだろう。しかし回らない頭の中で、きっと次の大会9月14日の「茅野縄文の里マラソン大会」に向けての練習方法をいろいろ思案していることと思う。走り出すと止まっていられない。頭は先をどんどんと走っていく。きっと、もっと、走れる。 でも、ここらで水分補給。 | |
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| ◆MLBの旅(07.6.10〜6.22)-その4 ◆江戸一 ◆08年07月01日 17:13 | |
V フィラデルフィアへ 2 フィラデルフィア・フィリーズ3X−0シカゴ・ホワイトソックス 思わぬ時間を浪費しましたが、試合開始30分ほど前に到着。出来上がって4年目の球場はシティズンズ・バンク・パークといいます。座席は三塁ベースのやや後方の前列で、4人分まとまって取れました。ここはファウルボールが捕れる率がいいので人気があります。この球場だけはインターネットを通じてチケットそのものを自宅のプリンターで印刷することができ、ウィルコールでの引き換え手続きは要りません。同じMLB.COMが関与しながらチームによってやり方が違うのは不可解ですが、やがてこの方式に統一されることになるでしょう。 ゲームは地元フィリーズが井口のいるホワイトソックスを迎え撃つインターリーグ、三連戦の初戦。フィリーズの監督はヤクルトなどで活躍したチャーリー・マニエルです。今期、極度の打撃不振のシカゴはこの日も元気なく、フィリーズの5番手のイートンに4安打無得点。緊張感をもたらす場面を一度も作れませんでした。その中で井口は辛くも1安打で私たちに報いてくれました。フィリーズ打線も不活発ながらバレル、ハワード、ロリンズが各ソロホーマーで3点。凡戦でした。 「松井秀樹程度の選手はザラにいる」と前に述べましたが、今日の2チームだけでもホームランを打った3人をはじめ、シカゴのトーミ、コネルコなど、この時点では松井と同等以上の成績を上げています。フィリーズのロワンドやアトリーも加えていいかもしれません。 余談ですが、球場で求めたスコアカードの中に “Newsy Notes” という紙ペラが入っていて、この両チームの関わりが次のように書かれていました。 「3年前に両チームがインターリーグで対戦したとき、トーミは4本、ロワンドは2本のホームランを打ち合った。当時、トーミはフィラデルフィアに、ロワンドはシカゴに所属していた。2005年末、両選手は交換トレードされたので、今年はユニフォームを変えて戦うことになる。あのシリーズでは両チームの総得点が65点、ホームランが22本という大乱戦だったが、今年はどうか。」 答はその後の三日間で出たわけですが、本日の3−0に続いてフィリーズが3−0、7―3、8―4で3連勝、号外が出るような突飛なことは起きませんでした。先ほど松井との比較で引き合いに出したコネルコ、アトリー、ロワンドがそつなくホームランを放っており、トーミもそこそこの活躍。一方、井口は第2戦も全く振るわず、第3戦はベンチに下げられてしまったようです。 “Newsy Notes” をここに取り上げたもう一つの理由はトレードです。両チームの間でトーミ、ロワンドの取引が成功しているわけですが、今年はフィリーズが昨年のホワイトソックスのエース、フレディ・ガルシアを獲得しています。このトレードが成立したとき、監督のマニエルは欣喜雀躍したとのこと。両チーム間のトレードは相性がいいのでしょう。そこでわが「井口」です。 井口はこの後間もなくフィリーズにトレードされることになるのですが、フィリーズが獲得した目的は、周知のことですが怪我をした二塁手アトリーの代役としてアトリーが回復するまで、期間限定で使おうということです。私はチェース・アトリーのことは今日まで知りませんでしたが、専門誌(Athlon Sports)によるとハワードとともに同チームの看板選手で、今年の成績も同じ二塁手として比較して、井口が勝てる項目はほとんどありません(三振数が幾分少ない程度で、他は圧倒的に負け)。井口の力が落ちたとは思えませんが、運も含めてMLBで生きていくのはたいへんなことなのでしょう。トレード成功の伝統を引き継いで活躍してほしいものです。 フィリーズはこの時点では勝率5割の水準でしたが、後半がんばってナショナルリーグ東地区を制覇しました。今年は日本人選手がアメリカンリーグに集中しているため、日本ではナ・リーグの情報が乏しく、私もフィリーズについてはよく知りませんが、先ほど名前を挙げたハワードは昨年のMVP、今年はロリンズと2年連続でリーグのMVPを独占したのですから看過できません。井口を凌ぐアトリーなど、大物選手がそろっているようですから、今後も注目したいものです。 この野球場の名物フードはチーズステーキとフレッツエル。チーズステーキは相当のボリュームですがなかなかの美味。気に入りました。Kと私はすぐに買えたのですが、ちょっとしたタイミングの違いでM氏は長蛇の列に並ぶ羽目に。M氏の感想。「ボリュームがあり、美味しいが、やや油っぽくて年寄り向きではないところもあるね。さすがに全部は無理だったよ。」それにしてもこちらのお嬢さん方はよく食べますね。これでは何とか症候群もやむをえないでしょう。 来るときは地下鉄で苦労したので帰りはタクシー。ものの10分程度でホテルに帰着しました。 | |
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| ◆MLBの旅(07.6.10〜6.22)-その3 ◆江戸一 ◆08年06月25日 13:59 | |
| V フィラデルフィアへ 1 歴史の街、フィラデルフィア MLB観戦旅行では毎回、旅程の一部にアムトラックを利用しています。今回はニューヨークからフィラデルフィアまでが列車の旅です。インターネットで購入した予約券は昨日朝、正規のチケットに交換済みです。 9:30にペンステーションを出て距離にして91マイル、1時間20分でフィラデルフィアの30番街駅に到着します。ボストンとワシントンDCとを結ぶアセラ特急の一部の区間を日本の「こだま」に乗った雰囲気です。 フィラデルフィアは、アメリカ合衆国の建国の舞台となった歴史の街。野球見物もさることながら、観光も重要目的の一つです。 駅からホテルまでタクシーで30分ほど。ホテルは「インディペンデンス国立歴史公園」の近くの“Holiday Inn Historic”。観光にはこのうえなく便利、ボールパークへも地下鉄を乗り継げば容易に行ける(はず)でした。 ホテルに荷物を預けて、早速近くにあるインディペンデントビジターセンターに出かけます。午後の観光の段取りをし、ついでにアメリカ史に関するフィルム2本を見て、中華街の一角で昼食を済ませます。 午後は「トロリー・ワークス」という、開放型の小型トロリーによる市内全般の観光です。 ガイドは恰幅のいいアフリカンアメリカンの男性。大きなペットボトルの水を飲みのみ大きな声で説明してくれます。旧市街から中華街、市庁舎を通って北西端の動物園を巡り、市中に戻る2時間弱のツアーですが、これで概ね町の概要はつかめました。 ベッツィー・ロス(合衆国の最初の国旗を縫った女性)の家、エルフレス小径(アメリカ最古の住宅街)はホテルのすぐそばで、散策する予定でしたが、トロリーからの眺めで代替。 4時過ぎ、ホテルに帰りついたとたんに雨が降り出しました。だんだんひどくなり、野球場への出発予定時刻にはまさに篠突く雨。今日もボールパークはドームではないし、ついに試合中止の憂き目に会うかとあきらめかけていたところ、幾分小降りになってきたので地下鉄の駅に向かいました。 地図によると、この駅から西方面行きで「シティーホール駅」まで乗り、ここで南方面行きに乗り換えるようになっています。ところが電車は当該駅を通過して先に行ってしまいます。急行にでも乗ったかと思ってバックしましたが、どうなっているのか事情がさっぱりつかめません。事実は、西行きの地下鉄には「シティーホール」という名の駅は存在せず、一つ前または後の駅で降りて徒歩で南行きの駅に行く、というシステムだったらしいのです。チケットのシステムも理解できず、駅員がブースから出てきて親切に説明してくれたりする場面もありましたが、基本的な事実に無知であったり思い込みがあると、人間とは次の判断が全くできないものだという、当たり前のことを改めて思い知った次第です。 | |
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| ◆東京近在便り 〜その三〜 ◆谷口 ◆08年06月16日 15:49 | |
| 前回、四国の札所をいつか歩いてまわりたいと書いたら、面白い本がありますよと教えてくれた人がいる。『四国遍路』辰濃和男著/岩波新書。さっそく手に入れて読んでみたが、これがほんとに面白い。著者は1975〜88年まで朝日新聞の天声人語を担当されていた方で、四国遍路は二度目だという。一度目は40代の記者現役時代、そして二度目がこの本に書かれていることで、退職後の70歳にかけてである。もちろん「歩き遍路」で、6回に分けて延べ71日を要したという。40日前後で回る人が多い中、のんびりのようだが、それは奥の院や番外霊場まで足をのばしたり、なるべく旧道をまわられた事にもよる。早くまわることに何の意味もないし、せっかくならこんなふうに千四百キロをじっくりと歩きたいものだ。 海道を暮れて歩ける遍路ひとり 山口誓子 四国遍路のイメージはまさにこの句に凝縮されている。つい憧れてしまうのもこんな絵だ。 辰濃さんは四国の草木虫魚、その背後にある山河、山河の背後にひろがる乾坤、四国の「太古」、そういったものに誘われたとも書いておられる。また菅笠に書かれた「同行二人(どうぎょうににん)」、お大師さんが一緒という意味だが、それがどういうことなのか、からだで知ろうと歩き始めたという。 お遍路さんの金剛杖は墓にある卒塔婆を象徴している。野垂れ死んだら杖を卒塔婆がわりに立ててくれということ。杖には梵字で空、風、火、水、地と書かれている。宇宙そのもの。お遍路修行はポツンとひとり宇宙へと旅立つということ。 こんな面白い本も近頃めずらしい。むしろ「四国遍路」など自分にはまったく縁のない世界だ、と思っている方々にぜひおすすめする。Amazonなら古本で1円(送料別)。 歩き続けていく中で、長い年月に溜まった、見栄や虚栄やうぬぼれや手前勝手や自尊心やインチキや欺瞞や思い上がりやプライドや自負心や矜持や慢心やらの層が、一枚一枚と剥げ落ちていくのだろうか。そして最後には玉葱の皮の如く何もなくなってしまうものなのか。 なにはともあれ、いつか菜の花の咲く頃の四国遍路のために、少しずつ準備は進めていこうと思う。 今年は早い梅雨入りで、そろそろ梅干を漬ける準備にかからなくてはと思って去年のメモ帳を開く。最初の塩漬けが7月8日(日)となっている。ちょっと遅すぎる。メモを繰っていくとわかった。急な身内の入院、手術などもありぎりぎりで漬け込んでいたのだ。一年前のこともろくに覚えていない。日記といえるほどのものではないが、ちょっとした事を書き残したメモが役立つ。 そうこうしていると、昨夜千葉の契約農家から青梅が届いた。量はまだまだ足りないが、がぜんやる気になってくる。梅干、らっきょう、ジャム・果実酒。梅雨時というのは楽しみがいっぱいだ。 この季節、草木をみているとわかるがいっせいにぐんぐんと成長していく。実生のイチョウの木が一晩で10cmも伸びた。まさに大成長だ。今、草木のものを食べるということは、成長の証のようなものをいただくわけだから、申し訳ないしありがたいし、うまいわけだ。うまいといっても文字ではわからないだろうから実際に何か一つ作ってみよう。材料は旬の夏みかんの皮と砂糖。マーマレード作りだ。 @ 夏みかんをタワシでごしごし洗う。適当に食べて皮を集める。(3個分ほど) A 皮の内側の白い部分をスプーンでこそぎ取る。(白い部分が多いと苦くなる) B 皮を薄くスライスして小鍋に。1個分の実もタネを取って入れようか。水少々。 C 火にかける。蓋はしない。時々木ベラで混ぜる。 D 30分ほどして砂糖を入れる。丁寧に混ぜる。(砂糖はかなり大量、甘さをみながら) E 時々混ぜて、小1時間。また小1時間。 F さまして出来上がり。熱湯で殺菌して乾燥させた瓶に入れ替えて、ラベルを貼って完成。 トーストはもちろんのこと、ヨーグルトに入れてもうまい。どうぞ、ぜひ。 遠いたくらみにワクワクし、身近な事々にソワソワする。 「その中間の日々の営みは」と聞かれて、「おっと」と答える昨今。 | |
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| ◆MLBの旅(07.6.10〜6.22)-その2 ◆江戸一 ◆08年06月05日 14:41 | |
| 3 ヤンキースタディアムへ 翌6月10日、起床するとかなりの雨。過去2回、雨に降り込められたことはなかったのに、いよいよダメか、という空模様でしたが、次第に明るくなってきました。 まず5番街37丁目にあるヤンキース・クラブハウスに駆けつけ、11時の開店を待ってそれぞれに土産を調達、そのまま42丁目のグランドセントラル駅から地下鉄でヤンキースタディアムへ。 私たちの確保した席は「メインリザーブドMVP」と称するエリアで、ネット裏一階席の中段中央部分です。相手がピッツバーグ・パイレーツという人気度がトップのチームではありませんが、それにしても。、この価格でよくまあこれだけの席が取れたものです。 しかしこれにはそれなりの苦労もありました。ヤンキースタディアムの座席名称を頭に入れた上でインターネットアクセス開始ですが、初め、4人まとめて席を取ろうとすると全く座席がありません。2人でも同様、で1人にして“best available” と指定すると、この席があったのです。直ちに1枚を確定し、続いて残り3枚。同じ作業を4回繰り返し、やっとの思いで合計4枚が確保できました。この間約3時間。というのは入力項目がクレディットカード番号や住所氏名などは当然として、宿泊するホテルの住所名称まで入力する必要があるのです。私はタイピングのスピードがそう速くはありませんので、入力し終わると「タイムアウト」。また一からやり直しです。そんな作業を繰り返しながらも、最後の1枚をゲットしたときはほっとしました。したがって、座席は同じレベルですが場所は4人バラバラです。この作業は4月17日に行いましたが、もう少し遅かったら、この場所は取れなかったでしょう。 当初はアメリカのチケット業者とも折衝しましたが、返信に時間がかかっていつになるかわからない上に、価格は最低でも140ドル(外野席との境界に近い3階席)。ちなみに私たちの価格は諸経費を加えて77.10ドル。 4 ニューヨーク・ヤンキース13X−6ピッツバーグ・パイレーツ 6月10日13時5分、定刻にプレイボール。今日はインターリーグ、このカード三連戦の第二戦。昨日は話題のクレメンスが初登板してヤンキースが9対3で勝っています。 さて今日のゲーム、我々にとってのハイライトは松井の2安打でもA-Rod の2ホーマーでもなく、パイレーツ桑田の初登板です。2対5とリードされたパイレーツが4回表に集中打でヤンキースの先発クリッパードをノックアウトし逆転しますが、その裏A-Rod のスリーランで再逆転を許し、ヤンキース8対6のリードで迎えた5回の表です。シーソーゲームの打撃戦の中盤、ここで起用される中継ぎには重大な責任が課せられます。3Aから引き上げたばかりの桑田をここで投入したのには、チーム事情もあったでしょうが、ベテランへの信頼も期待されたのでしょう。 さてこの回、桑田はカブレラ、カイロ、ニエヴェスを討ち取ります。続く6回表も一、二番のデーモン、ジータを仕留めたまでは完璧でした。しかしここで三番アブリューに四球のあとA-Rodにこの日二本目の2ランを右翼席に持っていかれ、6対10とリードを広げられてしまいました。そのあと松井にも四球を与えましたが次のカノーを抑え、今日の桑田のデビューは終わりました。 試合が緊迫していたのはここまで。7回に登板したパイレーツのベイリスが乱調、一方ヤンキースはヘン、ビスカイーノ、プロクター、マイヤーズとつないで、結局13対6でヤンキースの地力の勝利となりました。 「桑田の怪我回復後の3Aインディアナポリスでの実績は、3試合4回2/3無失点。今回のヤンキース戦の直前に、クローザーのトーレスの故障者リスト入りに伴い、その枠で登録。パイレーツ121年の歴史における最初の日系選手」とUSA TODAY のSports Weekly は紹介しています。 「過去の栄光はともかく、昨年日本で全く実績のなかった選手が大リーグで通用するはずがない。それがともかくこうした舞台に出られたのだから、本人は満足だろうし、経歴にも箔がついた。今後再び登板する機会はないかもしれない。」 帰路、地下鉄内での私たちの雑談の最大公約数です。桑田ファンには失礼な表現があるかもしれませんが、個人の考えですからそこはご容赦を。結果からすると当った部分もあるしそうでないところもありますが、ともかく「メジャーの選手としては戦力外」との結論は出ました。今後の同選手の活躍を期待するのみです。 5 メディアの評価は? 松井も今日は職責を果たしました。昨年の同僚チャコンから初回、走者二人を一掃する左中間二塁打、三回にもセンター左への単打をつなぎ、追加点の因を作りました。十分な活躍です。 しかし気になるところもあります。「トーリ監督の信任が厚い」等々、日本のマスコミはこの手の話題をしきりと流します。それに間違いはないでしょう。何しろ入団以来ヤンキースの中軸を任されてきたのですから。では現地のメディアはどうか。残念ながら私たちの滞在中、USA TODAY は松井については一行も触れていません。球場で売っている「ヤンキースマガジン」7月号が、「2000本安打の達成でHall of Fame に相当する名球界入りした」と伝えているのみ。松井は旬の話題ではないようです。この時点で打率2割8分、本塁打6本、このあと私たちは8チームを見ましたが、この程度の選手は大リーグにはザラにいる、という印象を否めませんでした。(写真は松井の勇姿 観戦席から K氏提供) 桑田・松井と日本人ならではの感想をつづりましたが、客観的に見ればこのゲームの主役はA-Rod ことアレックス・ロドリゲスです。ホームラン2本に2四球で4得点5打点ですから、言うことはありません。帰国後M氏から寄せられた感想「ヤンキースタディアムで最も印象に残ったのは、レフトスタンドとライトスタンドへ2本のホームランを放ったロドリゲス。年間ホームラン王、打点王を獲得し、MLB最高年俸を更新した男の強打振りをタイミング良く見られたこと。」まさにこのゲームの真髄はこれに尽きるといっていいでしょう。 もう一つ、USA TODAY Sports Weekly の6月13〜19日号におもしろいアンケートが載っていましたので、その一部をご紹介しましょう。 「君(がオーナー)ならヤンキースをどうてこ入れする?」と題して、「ヤンキースは序盤の泥沼から這い上がり、勝率をやっと5割近くまで戻してきたが、もう一度スランプに陥ったら、@ GM(キャッシュマン)、監督(トーリ)を馘首するか? AA-Rodはチームを去るべきか? B選手のトレードは?」 などと4人の同社の記者に尋ねています。 @、Aの答えはおおむね“NO!“ですが、Bがおもしろい。34,5歳以上のベテランを放出せよ、というのが共通の論調で、具体的に3人以上がアブリュー、デーモン、ジオンビの放出を主張し、ポサーダ、リベラすらもFA前に何とかすべし論が2名、といった按配。 松井の名を上げたのは一人だけだったのにはほっとしました。あと、投手陣の放出候補では、ムッシーナ、リベラ、ファーンズワースと並んで井川の名があったのは名誉かご愛嬌か。 以上でヤンキース観戦の長い一日は終わりますが、おまけを一つ。 3回を終わったところで弁当を買いに売店に行きました。売り子はカラードの若者。つり銭を用意しながら尋ねてきました。 「どこから来たの?」 「Japan」 「どこのチームが贔屓?」 ここはヤンキースと答えざるを得ないでしょう。すると 「そうじゃなくて、日本ではどのチーム?」 どうせ知らないだろうと思って 「ソフトバンク」 と答えたところ、 「Oh, MATUNAKA!」 これにはびっくり。王監督のことも知っていました。 後ろに列ができたので、握手をして別れました。松中が米国でどれほど知られているのかわかりませんが、マニアだかおたくだか、妙なところに詳しい人もいるものです。「城島も井口もソフトバンクの出身だよ。」ぐらいのことを話してくればよかったとあとで思いましたが、そのときは浮かびませんでした。 ついでにおまけをもう一つ。 帰りの地下鉄のチケットカウンターの混雑を避けるため、帰りのチケットは往きの駅到着時に求めておくのが常識ですが、チケットの有効時間2時間という制度が導入されたとのことで、帰りの自動改札でストップを食ってしまいました。後ろに大勢並んでいるのでやむなくバーの下を潜り抜けましたが見事に見つかってしまい、買い直し。ただ、日本の水道橋のように人で埋まるほどの混雑はなく、ここでもアメリカのマイカー社会の一端を見た思いでした。2004年まではこんなことはありませんでした。今後地下鉄ご利用の方はご留意を!(To Be Continued) | |
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| ◆MLB観戦の旅(07.6.10〜6.22)-その1 ◆江戸一 ◆08年05月31日 07:43 | |
T プロローグ 「身体健全であれば、2年後にでもモントリオール、ボストン、フィラデルフィア、ボルチモア、フロリダ、と東海岸を縦断するMLB(メジャーリーグベースボール)の旅もあるかな、と思案しています。」 これは2004年6月に挙行した「第2次MLB観戦と地方都市観光の旅」の観戦記の末尾に書いた一文です。齢70を超え、身体健全度は少々落ちましたが、予告よりも1年遅れて今年(2007年)6月、場所も少し変わりましたが、ニューヨーク、フィラデルフィア、フロリダ、ヒューストン、アーリントン(テキサス)を歴訪してきました。 今回のきっかけは、年明けM氏から「メジャーリーグ観戦計画があるなら同道したい。」と持ちかけられたこと。早速共同計画者のKと相談し、実行に移すことに一決しました。 過去2回ともこの旅行は4人のパーティでしたが、この種の個人旅行には「4人」が実行面でも経費的にも都合がよく、今回もKの誘いに応じて海外旅行に通じたS氏が参加することとなり、4人そろって6月9日、ニューヨークに向けて出発する運びとなりました。 1 ボストンはあきらめる ボストン訪問は年来の希望であり、野球はもとより観光的にもぜひ一度は行ってみたいところです。ところがボストンレッドソックスの地元人気、フェンウェイパークの収容能力、それに最近の松坂人気も一役買ったか、4月はじめの時点でMLB公式サイトのチケットは完売です。地元の代理店にも当たってみましたが、外野の自由席が20,000円レベルの高値。雨でも降ったらそれっきり。 思い出しましたが、2000年のインディアンズがそうでした。年初に日程が決まった時点で公式サイトは売り切れたそうで、やむなく現地の代理店に電話し、苦戦しながらも何とかリーズナブルな価格で三塁側の内野席を手に入れることができました。中小都市でチームが強いと、こうした現象がよく起きるようです。 ボストン郊外のクーパースタウンというところに「野球の殿堂」があるので、ここと一般観光とフェンウェイパークツアーとを組み合わせるのも一案でしたが、肝心の生の野球がなくては・・・・・・、と言うことになり、ボストン訪問は来年以降に送ることとなりました。 2 旅の部品調達はインターネット ボストンをはずしてさてどこに行くか。ニューヨークのヤンキースタディアムはベースボールのメッカですからこれを加え、ボストンに代えて歴史の街フィラデルフィアを入れ、めったに行けそうもないフロリダ、NASAで有名なヒューストン、観光資源が魅力のアーリントンと順路に沿って野球の日程と照合してみると、概ね旅程も組めそうです。あとは野球のチケット、航空券、ホテルの予約との整合を取ることです。 3年ぶりにこのツアーの計画をしてみて、インターネットの利便性が格段に充実してきたことを感じました。 まず野球のチケット。MLB.COMという公式サイトにアクセスし、各チームのサイトで予約するのですが、従来は引換券が出てきてこれを現地の窓口(Will Callと言う)で正規の入場券に交歓するスタイルだったのが、今回は一部のチームでは入場券そのものが印刷できるのです。同じMLB.COMの傘下にありながら、チームによってやり方がさまざまなのはアメリカ的なのかそうでないのか。近いうちに入場券印刷方式に統一されるでしょう。 航空運賃については、アメリカの数都市を周遊する場合さまざまな割引制度があますが、その様態は複雑。航空会社によっても時期によっても異なり、航空会社を組み合わせると思わぬメリットが出たりします。素人には手に余りますので、基本的なルートや価格をインターネットで調べておいて、旅行会社に相談しました。航空運賃は3年前に比べて2倍程度上昇しているようです。 ホテルの予約が今回は思いのほか難航しました。特に難渋したのはフロリダとアーリントン(テキサス)。今回のホテルは野球の観戦に便利な立地にあることが前提条件ですが、この種の情報がまったく得られません。航空券を発注した会社(日本を代表する旅行会社の某支店)は、「当地には契約しているホテルは少ないし、野球場に近いか否かの情報はない。」と言って「あっぷるほてる」のURLを送ってきたのにはびっくり。勝手に探せと言わんばかりです。 で、海外旅行を得意とする大手に相談したところ、情報不足は同様でしたが系列の会社を動員して調べてくれ、当方の希望に遠からぬホテルが何とか確保できました。ニューヨークやサンフランシスコのことなら何でも知っている日本の旅行会社も、ちょっと地方に入ると情報も調査能力も乏しいのが実態のようです。 行程の途中に可能ならば列車(アムトラックなど)の利用をはさむようにしていますが、列車のチケットはインターネットのほうが旅行会社の半額以下で取得できます。今回はシニア割引もしっかり申請し、頂戴しましたが、旅行会社経由ではこうはいきません。 U ニューヨーク 1 ニューヨークへ向けて出発 6月9日(土)、17時50分発のアメリカン航空にて、出発。同日の同時刻(現地時間)にニューヨークにオンタイムで到着。ペンシルヴァニア駅のすぐ近くのホテルで一服して直ちに夕食に出かけます。 7番街を30分ほどぶらぶらと北上、目指すはセントラルパークの南、59番通りに面するスポーツバー“Mickey Mantle’s”。ヤンキースのスターだったミッキー・マントルのレストランです。金曜の夜なので混雑していると思いのほか適度に席があります。店内には数十台のテレビが備えられ、野球のみならず、各地のスポーツが中継されています。そういえば今日のデーゲームで、ヤンキースは鳴り物入りで加入したロジャー・クレメンスが初先発しているはず。「どうだった?」と係のおねーちゃんに聞いてみたけど、彼女、野球には興味がないみたい。 「パック旅行と違って、自分たちの好きなところで好きな食事ができるのがいいねえ。」 とK。満腹・満足して、明日の天気を心配しながら夜の5番街をホテルへと戻りました。 2 ホテルの治安は 私たちは朝まで熟睡しましたが、S氏の部屋で鍵のトラブルが起きていました。 S氏の話。 「鍵の具合がおかしい。フロントに依頼すると修理に来た男はハンマーで取り付け部分をぶち抜いてしまう。こんなことはよくあるのだと言う。修理はしないのでフロントに部屋の交換を頼むと明日手配すると言う。今晩をどう過ごせばいいんだ、と押し問答の結果、しぶしぶ交換に応じた。新しい部屋は新築部分らしく良かったが、時間はかかるし対応は悪いわで、睡眠どころじゃなかった。今日は皆さんと一緒に行動できるか心配でしたよ。」 S.さん、たいへんでしたね。しかしハンマーで簡単にとれてしまうような鍵では安心できません。それに夜中とはいえ日本では考えられない対応の悪さ。このホテル、高級とは言えませんが、アムトラックの駅へ歩いて行けるのが魅力だったのです。 | |
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| ◆東京近在便り 〜その二〜 ◆谷口 ◆08年05月10日 07:25 | |
| 連休は二日を早仕舞いにして、午後から4泊5日で四国をまわってきた。 東名、伊勢湾岸、東名阪、新名神、名神、中国、山陽と高速道路を乗り継ぎ、倉敷ジャンクションから瀬戸中央自動車道で瀬戸大橋を渡り四国坂出に未明に到着。泊。 三日は遅い朝飯を讃岐うどんにしようと、有名な某店を探し当てたのだが、時すでに遅しで売り切れ御免。仕方なく琴平に向かう道路脇のセルフのうどん屋さんで我慢、と入ったところがこれが旨い。さすがに本場。全体のレベルが高いのだ。お代わりにざるの大盛りを食べてしまう。四国には旨いものが多い。ここ3ヶ月で10kg絞った体のリバウンドが恐ろしい。金毘羅さんの本宮までの石段がちょうど腹ごなし。足に自信のない方は大笊に竹を渡したような簡易な駕篭に乗るようだ。両側で二人が担ぎカニの横歩きの如く一段一段と登っていく仕掛けだ。たまたま目の前でご婦人が乗ったのに出くわした。駕篭屋さんの二人は大汗。息が荒い。共に60年配か。格好もバラバラ。足も覚束ない。見ている方がはらはらする。 最近はちょっとした観光地には人力車が走っている。なかなか凛凛しい若者が梶棒を握っている。あれならまだましだが、金毘羅さんの駕篭屋はいただけない。商売上の権利の問題があるのかどうか知らないが、見ていてすがすがしくなるような駕篭屋さんでないと大変見苦しい。事故の補償もあるとは思えないし、はては雲助の末裔か。 高速を走り松山に。15:30。一草庵に飛び込む。ここは春・秋にそれぞれ3日間だけの公開。最終日の閉庵前にギリギリに間に合ったわけ。種田山頭火、終の棲家。寺の納屋を改造したささやかなもの。松山の俳句好きの方々が寄り集まっておられた。山頭火ここでの句『おちついて死ねさうな草萌ゆる』。 道後をまわって大街道の地元の居酒屋で夕食。鯛めし、じゃこ天、はぎの薄作りなどなど。酒は寿喜心。 4日は内子町。江戸、明治、大正の町並みが保存されている。軒の高さに落ち着く。芝居小屋「内子座」も見もの。じっくりと歩く。 たとえば高山や小布施と比べてみると、各段に内子がいい。いやらしさがないのだ。どうも最近の町おこしのようなものは、何かセンスらしきものを歴史の中に無理やりに押し込み、仕掛け人のような人が勝手に納得してはしゃいでいるような印象を受けるが、肝心なのは身の丈に合ったそのまま。そこに感動があるし、その感動が持続していく。持続していくことによって、また百年後に新たなものを生み出す。 大洲の臥龍山荘。『おはなはん』の町、といっても50代以上の人にしか分からないか。この町、すれ違う子供たちが、「こんにちは」と声をかけてくれる。ごく自然に。都会にはないものが残っている。山荘の不老庵で抹茶をご馳走になる。眼下に肱川。舟を浮かべたくなるような淵。秋が特にいいだろうな。 申し訳なくも大先輩の出身地宇和島の町を車から眺めただけで通過する。宿毛、四万十、須崎。須崎で鰹を食い、高知に向かう。 高知の宿に入れば飲んで喰って歌ってと思っていたのだが、予約がうまく通っていなくて、「このっ!」をなんとか飲み込み、それでも高知にはうんざりして(高知県の人すみません)徳島に向かう。山里に入ればいい旅館でもと思ったのが間違いで、ひたすら土佐中街道を走る。2時間、3時間、4時間。5時間、とっくに日付は変わっている。山中。狸も出る。その名も恐ろしい四足峠、通る車すれ違う車一台もない。真っ暗闇。未明、徳島着。途中で予約しておいたホテルに転がり込む。爆睡。 高知を素通りしたことで半日行程が早まった。まァありがたいか。 朝、阿波十郎兵衛屋敷で人形浄瑠璃を観劇後、鳴門市の坂東俘虜収容所の跡地に建つドイツ館へ。第一次世界大戦のさなか中国青島で捕虜になったドイツ人を収容したこの収容所の話は、心が爽やかになる。 うず潮を眺めながら大鳴門橋を渡り神戸元町へ。駐車場の兄ちゃんに紹介してもらった薄汚い焼肉屋で口笛が出るほどの最高の焼肉を喰う。飲む。高知のおかげでここで泊まり。 最終の6日は京都錦の市場にある「打田」で漬物を仕入れて高速に。新名神の信楽で一旦降りたぬきを見る。買うもの無し。ふたたび高速に乗り、渋滞もなく夜11時東京着。総距離2200km。 今、目をとじて浮かぶもの。途中幾人も見かけたお遍路さん。いつか歩いてまわりたい。と思う。 | |
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| ◆東京近在便り 〜その一〜 ◆谷口 ◆08年03月18日 16:49 | |
| 一週間経ってひどい筋肉痛がやっと治まって、みなさまには久しぶりにお便りいたします。 木瓜の蕾がほころんできました。11日にはウグイスの初鳴きを聞きました。 餌台には、メジロ、キジバト、ムクドリ、ヒヨドリ、スズメの常連の他に、シジュウカラ、キビタキなんかも顔を出し賑やかです。嘴が一番鋭いムクドリが中型ですがキジバトを押しのけ最優位のようです。それぞれつがいで来ています。餌台には穀類と果物を置いています。時々、脂身を置くとシジュウカラが大喜びです。 朝、近くの畑はもう桃色のホトケノザの花盛りでした。畑二枚ほどが桃色のじゅうたんのようでした。ジョギング中でじっくりと足を止めなかったのが悔やまれます。黄色の木の花はサンシュユ。これもあちこちに盛り。 走りながら思い出したのは、上方落語の『愛宕山』。東京でもやりますが、やはりお囃子のにぎやかな上方の方が陽気で合っているように思います。一場面。「野辺へかかってまいります。何しろ春先でございます、空にはヒバリがピーチクパーチクとさえずっていよォか、野には陽炎が燃えていよォかといぅ、遠山に霞がたなびィてレンゲ、タンポポの花盛り。麦が青々と伸びた中を菜種の花が彩っていよォといぅ本陽気。その中をやかましゅ〜言ゥてやって来る、その道中の陽ォ気なこと……」ここでお囃子がにぎやかに入ってきます。米朝がいいですね。 NHKの朝ドラ『ちりとてちん』で草若師匠役の渡瀬恒彦もこの噺をやってました。 まあそんな風で、東京近在国分寺も春本番花の季節到来黄色と桃色の世界です。 さて、筋肉痛というもの、うんと若い頃だとキツイ運動をした翌日には出たものでしたけれど、翌々日のまた翌日に腿の裏が痛くなったりと、筋肉もずいぶんと暢気になったようです。 九日の日曜日に初出場したクロスカントリースキー大会。たっぷりの雪。山はまだまだ冬です。5km完走はしたものの、息もたえだえ足腰は硬直し、さんざんのデビューでした。1600mの高地にあるコースは、大昔、東京オリンピックのマラソンで銅メダルを取った円谷栄吉選手がトレーニングをした場所。通常の生活では感じないですが、激しく動くと空気の薄さを感じ、すぐに息切れしてしまいます。東京で2ヶ月間集中してトレーニングを積み、6kg体重を落としての挑戦でしたけれど、付け焼刃のその場しのぎではやっぱり無残な敗北。スポーツは、わかっているけど不断の努力の積み重ねですね。 でも、静寂の落葉松林の中、白一色の世界、自分の呼吸音だけを耳に自然の起伏を滑走していく爽快さは、何にもたとえようがないです。どんなに辛くてもまたスタートラインに立って、合図の電子音を数え、呼吸を整えていると思います。クロスカントリースキーは40年間片思いに思い続けてきたスポーツですから。 1968年。フランスのグルノーブルであった冬季オリンピック。ジャン・クロード・キリーがアルペンの三冠王に輝いた大会。その大会の記録映画がクロード・ルルーシュ監督の『白い恋人たち』(原題は13 Jours en France) その映画の冒頭。広大な雪原。遠くでかすかな息遣い。だんだんとはっきり大きく。林の中から小さく聖火ランナーが見えてくる。近づいてくる。その顔。汗があごに凍り付いている。はく息が白い白い。もくもくとスキーを走らす。聖火ランナー。雪原。白一色。息遣い。映像にフランシス・レイの有名なテーマ曲がインしてくる。小さく小さく、そしてじょじょに大きく。鳥肌が立つ程感動しました。中学生でした。その時に初めて見た、斜面ではなく平地を滑っていくスキー。マラソンのようなスキー。孤高のスキーランナー。 あれから40年。今やっとこのスポーツに自分も仲間入り出来ました。これも偶然の出会いのおかげなのです。 1月のある日。蓼科の小屋から30分ほどの霧ケ峰スキー場へ行きました。クロスカントリーのコースがある本州では稀なスキー場。本場は北海道です。道具もすべて北海道から取り寄せます。この競技には平坦で広大な大地が必要なのです。そこでKさんに偶然に会いました。Kさんは斜面をスケートの要領で、スキー板を逆ハの字にして軽快に滑り登っていくのです。最初は奇跡を見る思いでした。スキーは滑り降りるものですから。その場で弟子入りしました。Kさんはマスターズの全国大会で一昨年、昨年と2連覇されています。今年も昨日あった猪苗代の大会に出場されています。3連覇がかかっている大会です。どうでしたか。まさに雲の上の人。出会いに感謝。 そんな、春と冬を行ったり来たりの日々を送っております。ちょっとサロンパス臭くなって。 | |
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| ◆中野坂上便り 〜その三十一(最終回)〜 ◆谷口 ◆08年02月21日 12:34 | |
| 一年を振り返るにはやや早い気もするが、この便りもこれが最終回ということで、そならよくあるパターン今年読んで心に残った本を10冊あげて、さよならすることにしう。 先に断っておくが新刊は一冊もない。もし列記した本に興味を持たれた方は、古本屋で手に入れるしか入手方法はない。もちろんお貸しすることはかまわないが、きっと自分の書棚の一冊として自分のペースで読まれるほうが、本の面白さを十分に味わえると思うので、早稲田辺りなり、神保町界隈なり、ご近所なりの古書店での入手をおすすめする。本屋の店頭にドンと平積みされた本や、書評に取り上げられるような本にはまったく食指が動かない。なぜか時間の経過に洗われた本にしか興味が湧かない。まあ年増贔屓ということだろうか。では順不同で。 『漱石の思い出』夏目鏡子口述/松岡譲筆録 文春文庫 明治の女というのは、江戸の女とも大正・昭和の女とも違った一種独特の雰囲気を持っている。祖祖母がそうだったな。子供心に漠然と偉い人と感じていた。明治男は明治女の手の平の上で髭をはやしてふんぞり返っていたのだろう。漱石先生然り。鏡子夫人あって文豪漱石あり。読めばますます漱石本が面白くなる一冊。 『小石川の家』 青木玉 講談社 文豪に縁のある人の本が続く。青木玉は幸田露伴の孫、幸田文の娘。その三代の物語。今の日本ではとおに死語になった「厳格」という言葉を思い出させてくれる。母(文)の気丈さに心打たれる。こんな家族があったのだ。あわせて青木玉の『幸田文の箪笥の引き出し』『帰りたかった家』も絶対におすすめ。 『寺島町奇譚』 滝田ゆう ちくま文庫 ごぞんじ「ぬけられます」の漫画。舞台は花街玉の井、昭和19年から20年3月10日の東京大空襲まで。少年キヨシの目を通して描かれる大人の世界、子供の世界、日常のあれやこれ。花街の客と女。作者の記憶の風景。路地の中の小宇宙。あわせて永井荷風『濹東奇譚』。 『辺境の食卓』 太田愛人 中公文庫 心が洗われ腹ペコになり森を目指したくなる。著者は信州の最北端、一茶が「これがまあ終の棲家か雪五尺」と詠んだ柏原にある信濃村伝道所の牧師さん。森を歩き湖で泳ぎ思索し詩作する。そして類い稀な料理人。森を食べる健康な食欲。さっそくその伝道所を訪ねたが、野菜を仕分けしていたおばさんが教えてくれた「太田先生がいらしたのは30年も前です」。これが古本読みの余得というもの。 『料理のお手本』辻嘉一 中公文庫 「素人が切れない包丁で作った刺身と、切れ味のよい包丁で冴えた腕で作られた刺身とでは、味に雲泥の差を生じます」。なるほどと買い込んだ堺の刺身包丁、実はまだ梱包も解いていない。嘉一さんすみません。この本、料理のあれこればかりでなく、「辻留」のはじまりの頃の話には人間の情がみえてほろりとなる。吉兆にはなるなよと思わずにはいられない。 『ファーブル植物記』 ファーブル 平凡社 昆虫記なら誰もが知っているが、原題が「薪の話」(1867年)というユニークな植物の話。 当時子供向きに書かれたもののようだが、140年後の大人にちょうどよい。ファーブルの他の著作と同様に読んでいてわくわくしてくる。次のページが待ち遠しい本。科学の面白さをファーブルはこの本でも教えてくれる。クリスマスプレゼントに最適な本。 『酒の肴・抱樽酒話』青木正児 岩波文庫 蘇東坡の漢詩が随所に出てくる。東坡はあの東坡肉(トンボウロウ/豚の角煮)の考案者で有名だが、北宋代最高の詩人であり何度か左遷された硬骨の政治家でもあった。時に東坡の口を借りながら、酒を愛し食いしん坊の中国文学者である著者が書いた味のあるエッセー。ズブロッカをちびちびとやりながら読み進みたい一冊。 『お能の見方』白洲正子 とんぼの本(新潮社) 「とんぼの本」シリーズにはずいぶんとお世話になった。幅広い視野、ビジュアルな構成で見て楽しく読んで納得。その中の一冊。「これを読んではじめて能がわかった」と正宗白鳥が言ったとか。たしかに能という特殊で縁遠いと感じていた世界が短時間でうっすらとわかり、今度能楽堂へ行ってみようかと思わせる、そんな本だ。趣味深い著者だ。亭主は最近評判の「風の男」白洲次郎。こんな日本人がいたのだ。こんな夫婦がいたのだ。 『圓生 好色ばなし』三遊亭圓生 朝日文庫 落語は本来聴くもの見るものだが、読むのもこれはこれで十分に面白い。同感の人も多いと見えて古本屋にもこの手の本がずいぶんと並んでいる。ブツブツと言いながら読んでいるわけではないのだが、知らず噺家さんの口調になって読んでいたりする。昭和の名人達を実際にラジオ・テレビで聴いたことのある最後の世代に間に合ったことを親に感謝する。 『京都故事物語』奈良本辰也 河出書房新社 “東男に都の女郎、いきと情けを一つに寄せて、色で丸めた恋の山、傍で見るさへ憎らしい” 浄瑠璃「神霊矢口渡」の一節。東男に京女といった意味の文献に出てくる最初のものだそうだ(1770年)。作者は福内鬼外(ふくうちきがい)。この時代こんなペンネームをつける男は誰あろうあの源内先生。これは第三章の「京のおんなとことば」の最初の話に出てくる。京にまつわる話のあれこれ、枕元の本として最適。 迷ったが以上10冊。 こんな便りに長い間のお付き合いを感謝いたします。 また形を変えてお会いできればと思いますが。 さあて | |
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| ◆高邁なる会話 ◆コスミ ◆08年02月10日 22:07 | |
| 八「オウ 熊さんじゃないか。ひさしぶり。 熊「ヤア 八ッァン、変りないかい。 八「このごろ見ないうち腹が出てきたナ、だいぶ羽振りがいいとみえるナ。それとも例のメタボリなんとかいうやつか。 熊「ところがそうじゃないんだ。八ッァンだからいうが、とんだ大笑いサ。 八「どういうわけだ。 熊「先日、電車に乗ろうと駅の改札を出ようとしたと思いねェ。 八「ン。 熊「生憎急いでいたもんだから右の足は右の改札口、左の足は左の改札口を通ってしまったわけヨ。 八「 そいつァえれェこった。 熊「そいでヘソから下が分かれちゃって不便でならねェ。腰に晒しをたっぷり巻き付けてねえと歩くこともできねえんだ。 八「そりゃあ難儀なこった。おめえは昔からそそっかしいからな。 熊「イヤ面目ねえ。 八「そそっかしいといえば。うちのかかアのことだがな。 熊「あァ アノ太った・・・イヤどうかしたかい。 八「やっぱりおめェと同じように駅の改札口を出ようとしてさ。 熊「股を裂いたかい。 八「イヤそうじゃない。今あるだろう、あのカボチャとかキュウリとかいうやつが。 熊「アア スイカというカードのことか。 八「ああそれそれ、そいつを間違えて銀行のカードをだしてしまったわけさ。 熊「それじゃドアがバタン、通れなかっただろう。 八「ところがかかあのヤツ、あわててたもんで無理矢理通ろうとしてドアにはさまれてしまった。 熊「ドアは・・・ウウンかみさんは大丈夫だったかい。 八「いや挟まれたまんま動きがとれなくなっちまった。それから3日、オレもほっとくわけにゃいけねェや。 熊「そりゃそうだ。 八「毎朝毎晩、改札口へ駅弁やハンバーガーを配達したもんだ。 熊「ご苦労なこって。いまもかい。 八「ところがよくしたもんで、かかあのヤツ毎日改札を通る客にジロジロ見られるだろう。さすがに恥ずかしくて痩せる思いというやつさ。おかげで今朝すっぽりと抜け出した。 熊「痩せたかい。まあいいこともあるもんだな。 八「ところで熊、おめェこのごろメッキリパソコンの碁の腕を上げたってうわさじゃないか。 熊「イヤ八ッァンの前だけどネ。それがチットも面白くねェんだナ。 八「どうして。 熊「実はこないだから機械のぐあいがわるくなって、あのマウスってやつがうまく動かねェ。そこでオレもかんがえた。マウスってネズミのことだろう。 八「そうだな。 熊「そいでもって、ウチの小僧が飼っているモルモットとかいうネズミをちょっと借りて、シッポにつないでやってみた。 八「そりゃ無理というもんだ。 熊「ところがドッコイ馬のケツ、うまく動いた。こりゃシメコのウサギとしばらく使っているうちどうも具合がよくない。 八「死んじまったか。 熊「いやそうじゃない。ネズミのヤツ生意気にも碁をだんだん覚えてきたらしい。オレの考えを無視して勝手に動いて歯をカチカチっとクリックしやがるんだ。 八「へェ、そんなことがあるのかい。 熊「それがまた実にうまい手を打つもんで感心してしまう。 八「そいつァもうけもんだ。 熊「チットもおもしろくねェ。 八「ハハハ・・・。それじゃゲンなおしにあそこの赤提灯でイッパイやってくか。 熊「そうさね、かみさんの健康を祝してといくか。 八「オイ足の運びがチョッと頼りないな。 熊「まあいいってことよ。 | |
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| ◆<食い物二題> ◆伊藤 ◆08年02月05日 18:24 | |
●スウィーティ スウィーティとは、イスラエル産の柑橘類の一種である。外見は、八朔の外皮の色を緑色にしたような感じであるが、中の果実は八朔より淡泊で上品な味がする。最近、スーパーで売られるようになり、値段も手頃なので、時々買っては食しているが、次第に自分の好物となりつつある。 ところが困ったことにこのスウィーティを買って食べようとすると、どうしても二つのことがひっかかって単純には楽しめないのである。 ひとつはフードマイレージのことである。他に国産の美味な果物がいっぱいあるというのに、どうしてはるばるイスラエルから運ばれてきた果物を食べなければならないのだろうか、という問題である。 もう一つ気がかりなことは、これは、占領地からパレスチナ人を追い出した後に入植したイスラエル人が作ったものではないかという疑いであり、もしそうであるならばこの果物にはパレスチナ難民の呪いが乗り移っているのではないかという恐れである。 スウィーティを食うべきか食わざるべきか、それが問題なのだ。悩みは深まるばかりだ。 ●鯨肉 昔は鯨肉をよく食べたものである。給食のカレーに入っていたり、夕食のおかずとして唐揚げなどにして出たことが思い出される。戦後の食糧難の時代には、鯨肉は代用肉として身近な存在であったが、国民の食生活が豊かになるににつれていつしか遠い存在になってしまった。私は、鯨肉を牛肉その他の肉類よりおいしいと思ったことは一度もないし、他の食べ物が自由に食べられるようになって以来、鯨肉を食べたいと思ったこともない。それは、少年時代にサツマイモばかり食べさせられた私のような人間が、大人になってからサツマイモに拒否反応を示すのと同じ偏見かもしれないのだが。 しかし、鯨肉が本当に美味なら戦後あんなにお世話になりながら、世の中が豊かになったからといって見向きもされず家庭の食卓からほとんど姿を消してしまうということはなかったであろう。やはり鯨肉は鯨肉であり、それほどうまい食べ物ではないのだ。 今、南極海における日本の調査捕鯨が話題になっているが、反捕鯨団体のメンバーに乗り移られた捕鯨母船の日新丸という名前は私にとっては懐かしい名前である。少年向けの新聞雑誌などには、時々捕鯨のやり方の紹介や、捕鯨船団の出発記事などがでており、"図南丸"、"日新丸"といった捕鯨母船の名前を覚えている子供も大勢いた。 そして私が入社したての頃、昼休みに構内を散歩していたら、何と子供の頃に名前を覚えたあの日新丸が会社の岸壁に繋留されているではないか。私は早速、この修繕待ちの捕鯨母船に一人で勝手に入り込み、船内をくまなく見てまわった。そこで目についたのは、ブリッジの下の、解体作業甲板に面して設けられた立派な風呂場であった。 寒風吹きすさぶ荒れた南極海上での過酷ですさまじい鯨の解体作業を長期間続ける人たちにとって、唯一の楽しみは入浴以外にはなかったのではなかろうか。 それから40年以上の月日が流れ、時代も環境も大きく変わったが、日本は依然として南極海で捕鯨を続けている。調査捕鯨という名目で、一年に1000頭以上の鯨を捕獲し屠殺しているとのことである。かっては盛んに捕鯨をやっていた国も含めて世界の大半の国が捕鯨に反対している中、その反対を押し切ってまで捕鯨を続ける真の理由はいったい何なのか、私には今ひとつよくわからない。 捕鯨が日本国民の飢えを満たすためには必要不可欠な重要産業であるという理由は過去のものとなっている。捕鯨は日本の食文化を守るためにおこなっているという理由は、土佐湾は潮岬沖の伝統的な捕鯨ならいざしらず、南極捕鯨をやる理由とはなりがたい。残る理由としては、漁業資源の保護のために捕鯨はどうしても必要なものであると か、公海上の自由な商業活動を妨害されない権利は何物にも代え難い崇高なものであるというようなことぐらいしか考えられないであろう。 それが本当に正しいのであれば、それを正々堂々と主張して各国の理解を得るように努力すればいい。 しかし、単なる惰性、面子、天下り先の確保が本当の理由ならば、捕鯨からさっさと撤退すべきであり、その方がよほど国益にかなうと思われる。政府は海洋資源の保護という観点からのみ捕鯨問題に関与すべきであり、現状のごとく政府(特殊法人)自らが手を下して捕鯨事業をおこなう必要性はないと思われる。鯨はマグロと同様に民間業者の自由競争裡において味覚と価格と需要を競い合えばいいのではなかろうか。(伊藤) | |
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| ◆中野坂上便り 〜その三十〜 ◆谷口 ◆08年01月31日 13:47 | |
| 小鯵1パック8匹入って130円也。小鰺といっても12cm位はあるから、2パック買えばかなりの量だ。銀色鮮やか、身も締まって弾けそう。目付きもしっかりしている。たたきにして生姜で食べてもいいが、小鰺とくればここはオーソドックスに、から揚げにして南蛮漬けといこう。そうすれば一緒に、血液サラサラ効果の玉葱のスライスが山ほど食べられる。もちろん酢は身体にいい。それに骨ごと食べればカルシウム満点だ。 と、ここまで書いて何かさみしいものを感じる。いささか病弱志向。本来食べ物は健康のために食べるのではない。旨そうだから、旨いから食べる。身体と頭と心が欲するから食べる。太古からそうだった。健康云々栄養云々は何か次元が違う話。健康情報、栄養知識を持たない野性動物はいたって元気なものだ。 牧羊子さんが書いている。「テキは栄養学を目のかたきにしておりまして、ものはうまければそれでよいと頑固にいい張って、人の話に耳をかたむけないばかりか、うっかり、これは目によくきくのよ、などといってギンナンを出そうものなら、日ごろの好物にたちまち箸をつけず、そっぽをむいてしまいます。」テキとはご亭主の開高健。さすが開高大人。 鯵の南蛮漬けを食べたい、だから鯵を買い物カゴに入れる。 たまの料理。頭と尻尾を切り落とし、腹を開きワタを出す。軽く塩、わずかに胡椒をして小麦粉。カラリと揚げて、唐辛子酢にジュと入れる。玉葱スライスにピーマンも混ぜる。ほどよく味をなじます・・・ 兵庫の西宮に『播半』という料理屋があった。大正2年(1927年)創業の関西では屈指の料亭で、関西財界人や文化人の交流の場でもあった。昭和天皇も宿泊されたという。が、何よりここの名を人口に膾炙したのは、谷崎潤一郎の小説『細雪』の一節だろう。「芝居は鴈治郎、料理は播半・・・」。残念なことにその老舗料亭も一昨年廃業した。広大な跡地は山を削り谷を埋め、樹木を伐採してマンションになるという。ただ住民の反対運動もあり、わずかに建物の一部は西宮市の手で移築・保存されるらしい。この料亭の80年の歴史の最後の料理長が、西宮駅近くに『立峰』という料理屋を営んでいる。老舗の味は受け継がれているということか。西下した折にはぜひ立ち寄ってみたい。 戦前、その『播半』の板場で母方の祖父が立ち働いていた。祖父が料理し、『播半』で当時用いていた北大路魯山人の器に盛り付けたものが、谷崎の舌にのったのかもしれない。 無口な祖父だった。料理人を引退して何年も経っていたのだろう。家に来ても、ただ裏山を眺めてじっとしていた。一日居ても話すのは二言三言。冬でも桐の下駄を履いていた。遊びに行ったら、炭火を熾し胡麻を丁寧に煎っていた。食べ物の記憶は出汁巻玉子。5才の子に美味しいはずはない。ただその味ははっきりと今も舌に残っている。『播半』の味かもしれない。祖父の包丁一本の人生。孫の目からは近寄りがたく孤高だった。せめて砥石のひとつも形見に残して欲しかったと思う。 料理は献立だから、その一品がいかに完璧でも面白くはない。何品かあり、見た目のバランスも味のバランスも、また箸休めのような強弱も重要になってくる。これは家庭でも同じことだ。居酒屋でひとり飲む時も気になる。家では盛り付ける器も気になる。たとえば、胡瓜と大根の糠漬けを盛り付けるとき。白っぽい器だと、せっかくの大根の白が死ぬし、濃い色だと胡瓜の鮮やかな緑が死ぬ。包丁で切りながら器も考える。料理する面白さはそんなところにも十分にある。 鯵も少し大振りなら塩焼きが旨い。焼き上がったら酢をわずかに。鮎に蓼酢が付き物のように、焼き魚には酢が合う。手前味噌になるが、酢は故郷宮津の栗田にある飯尾醸造の物が天下一だ。紀伊国屋にも置いてある。インターネットでも買えると思う。焼き魚の味が数段上がる。 さて、鯵の南蛮漬けには何を取り合わせるか。ベーコンでしし唐を炒めたものと冷奴に茗荷、これに胡瓜と茄子の糠漬けがあれば上等か。色味もいい。 店頭の小鯵から祖父へと思いが駆ける。人偲び物思う季節。燗酒。ほんとすっかり秋。 | |
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| ◆中野坂上便り 〜その二十九〜 ◆谷口 一 ◆08年01月11日 14:44 | |
| 秋の彼岸。「歩き」好きにとって忘れてはならない二人の先人がいる。この二人まったくタイプが違う。生きた時代も百数十年の隔たりがある。両者に共通したことと言えば、それぞれ当時としてはかなりの長命であったことぐらいか。歩即健。手を合わせておかなければならない。 一人は伊能忠敬、今一人は永井荷風である。 この二人の一番の違いは歩くエリアで、かたや国土全般を踏破し、もう一方は路地を横へ奥へと辿った。測量という公的な事業と、まったく私的趣味的な散策。両極端の二人ではあるが、両者に憧れの気持ちを強く持つご同輩も多いと思う。 伊能忠敬の墓は上野の源空寺にある。浅草に向かう大通りから150mほど入った所。墓地は寺の本堂と道を隔ててある。かんぬきをした鉄柵があるが、錠はかかっていないから、かんぬきを抜いて中へ入ればよい。まっすぐに5mも行けば左に忠敬の墓がある。師の高橋至時、その子景保の墓も仲良く並んでいる。まことにこじんまりとした墓地だ。 五十で隠居してから、日本地図作成という偉業を果たしたのは、第二の人生というよりまったく別の人生を生き直した感がある。二度生きた人といえそうだ。歩測と目測でよくあれほど精緻な地図が出来たものだ。四千万歩の一歩一歩を無駄にせず積み上げた男。あっぱれ。 ただその地図があまりに完璧なものであったため、国家機密持ち出しという「シーボルト事件」が起こり、師の子高橋景保は囚われて獄死している。胡散臭いシーボルトにしてやられたということか。忠敬にとってせめてもの救いは、彼の死後の事件であったこと。 三人の墓前からさて帰ろうと立ち上がり、ふと、目は並びの手前に意外な人の墓石を発見する。 「お若ぃの、お待ちなせぇ」の江戸の町奴、播髄院長兵衛の墓である。実在の人物だったのだ。 旗本の水野十郎左衛門のだまし討ちに遭い、風呂場で槍で討たれた話は、子供の時に映画か何かで見た記憶があるが、物語の中だけの人物ではなかったのだ。町歩き、墓歩きはこういう発見がまた面白い。墓というのは時間が止まった世界だから、古今の人が仲良く並んで佇んでいるわけで、何かしら微笑ましくなることもあり、また逆にこの人とこの人がと、空恐ろしくなることもある。 | |
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| ◆中野坂上便り 〜 その二十八 〜 ◆谷口 一 ◆07年12月05日 10:46 | |
| 評判の本は、買わない読まない。 評判の期間は極めて短く、本当に評判に値するものかどうかも疑わしい。追っかけぽくって性にも合わない。書評も読まない。誰かの書いた本の感想を読むほどつまらないことはない。ただ目に留まった本の、書名と著者名と出版社名はしっかりと見ておく。まあ、そこだけ見ただけで、「こいつ面白いかも知れんぞ」と思うものもあるし、「私結構いけるわよ」なんて迫ってくる本もある。縁あればいつか読む機会があるかなとは思うが、そこはそれまで。出た直ぐは決して買わない。 本屋の奥の方の棚の間をゆっくり歩いていると、「はいこっち、私、わたしよ」と主張してくる背表紙が時々ある。「ぼくに言っているの」と手に取ると、確かに面白そうだし、今、読みたい、ぴったりの本であったりする。著者や編集者の思い入れがぎっしりと詰まっていて、背表紙からあふれ出し、本に合いそうなそれらしき、気の弱そうな人を呼び止めるのかもしれない。あの『おいてけ堀』の「おいてけェ〜」と近似の、願望の怨念が作る妖怪の一種かもしれない。だから、本のあるところで耳を澄ましておれば、それらの手助けでいい本にめぐり合えることもある。 だが、いつか読もうと思って記憶しておいた書名の数々も、日々の出版の洪水の中に埋もれ押されて巻き込まれ、瞬く間にかき消されてしまう。そしてついには記憶の大海の深く深くに沈みこんでいき、闇に沈殿し、その層を形成していく。たまたま読書家のアンコウが奇特にも記憶の海底でその本に遭遇し、己の提灯を点けて読んでくれるかもしれないが、当方には記憶した99%の書籍が縁もゆかりもなかったものになる。しかしだ。100冊中1冊位はまことに幸運にも再会を果たすことがある。ただそれも、たいがいは書名を見てから、早くて5年、ふつう10年ほど後、古本の流通都合上もあり、かなりの年月を経てからになるのであるが。 青木玉『小石川の家』も、そんな中で幸運にも再会を果たした1冊だった。 早稲田の古本屋の店頭の100円本コーナーに、ドサッと置かれた本の山の中に見つけた。というより、例の如く声をかけられた感じ。表紙絵は安野光雅の小石川善光寺坂の大椋の木、その緑と緑影の上に幸田露伴愛用の用箋が刷り込んである。その8行の用箋の中2行の上方を使って、書名小石川の家と青木玉の名。奥付は1994年8月25日。これは!と思ってから、こうやって手にとるまでに13年がたっている。しかし、この13年の経過が、この本をより面白く読ませてくれるにちがいない、とも思える。空腹が最良の調味料であるが如く、時間の経過が社会的・個人的諸事万端で、感動の度合いをより深めてくれることはままあるのだから。 早稲田の古本屋で手に入れた後、神楽坂まで歩き、駆け込むように入った喫茶店の片隅で一気に読み終えた。そして、神楽坂にいることを幸いに、目白通りを大曲まで歩き、白鳥橋を渡り、安藤坂を登り、伝通院から善光寺坂を下りていった。その坂途中、道の真ん中にあの大椋の木。幸田露伴が、娘の幸田文が、孫の青木玉が馴染んだ椋の木が、そこに立っていた。 二階の露伴の書斎に座れば、その椋の木の枝に座っているような気がしたという。ガラス戸を開ければその枝先にさわれそうだったという。その木がここにある。 関東大震災で向島からこの地に越し、暮らした露伴一家。その三代の物語が『小石川の家』には書き込まれている。 椋の木はだいぶ弱ってきているようだ。この東京でよくもまあ、道の真ん中でこの木は生きてきたものだ。空襲にもあい、幸田家が焼け落ちるのを見届けただろうに。よく立ち残ったものだ。 坂を下った。下れば春日、菊坂を上り、本郷通りを赤門へ、病院脇を抜け、無縁坂を下り不忍池、上野浅草白髭橋から向島蝸牛庵跡(露伴公園)。一気に歩いた。幸田文はここで生まれ育った。 一冊の本に、じっとしていられないほどの気持ちの昂ぶりを覚えた。本好きでよかった。 帰り道、言問橋で日が暮れた。 | |
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| ◆中野坂上便り 〜 その二十七 〜 ◆谷口 ◆07年10月19日 15:27 | |
| 『傘亭』のことも書いておこう。JR高田馬場駅から早稲田通りを小滝橋方面に十分ほど歩く。小滝橋交差点の手前100m程の右側にある。見落としそうな小粋な店だ。 中野坂上の事務所からだと、大久保通りに出て、山手通りを越え、さらに歩いて神田川に当たる。川端の遊歩道を十分もたどれば小滝橋。早稲田通りを少し上がれば着く。二十五分ほどの距離か。 『傘亭』は蕎麦屋というのか飲み屋というのか。そのへんは客の判断だろう。昼前から通しで営業しているのがありがたい。酒も肴も蕎麦も旨い。旨い肴で酒を飲み、最後は蕎麦で締めくくる。ここ一軒で酒飲みの起承転結が可能。月一度ほどのありがたい店。 ここはうどんがまた旨い。おろし生姜ですする。その喉越しは格別。夏はうどんもいい。細く腰のある半透明の、ここだけのものである。 かって長坂の『翁』が東京の南長崎にあった頃、うどんも出していた時期がある。旨い蕎麦が打てれば、当然旨いうどんも打てるということ。 『傘亭』は入りづらい店のように書いてあるものをよく見るが、さてどうだろう。こういったことも人それぞれの取りようだろうが。初めての店というのは、誰だって入りづらいし、店前で躊躇することなど毎度である。 飲食屋には大きく分けて「乾杯系」と「一人で系」があり、「乾杯系」の店だと、数人でわっと入れるから何でもないのだけれど、『傘亭』などは「一人で系」の最右翼の店だから、やっぱり躊躇する気持ちは強いかもしれない。ただ、エイッと入ってしまえばこっちのもので、座ればきょろきょろしないで、まず酒を頼む。つまり自分のペースに早く入ってしまうことである。では酒は何を頼むか。それは一番上に書き出してあるもの。店だって、良いものを最初に書いておく。『傘亭』なら「菊姫」だ。そして酒が出たタイミングで、さっと「崩れ豆腐」を頼む。青海苔がちょいとのっかっていて、豆腐のコクが青海苔の香りとぴったりと合う。かわいいレンゲで食べる。この豆腐だけで二合はいける。 ここまでくれば自分のペースで、ゆっくりとメニューを眺めたり、壁に貼り付けてある様々を点検する。そして酒のお変わりを頼みながら「鮎煮」などを頼む。 こういう「一人で系」の店には、当然一人で行くこと。どうしようもない時があっても二人まで。三人以上なら「乾杯系」の前回書いた『室町砂場』のような店を探すことだ。 『傘亭』のようにおじさんが一人で切り盛りしている店は、午後の遅い時間に一人でいって、カウンターに静かに腰掛け、どっぷりと自分の時間を楽しむ、そんな店だ。 最近、蕎麦屋に行くと聞こえよがしに蕎麦のウンチクを語る人の多いことか。また、他店のは、どうのこうのと比較好きもまた多い。ウンチクも比較も結構だが、他人に聞こえないように願いたい。せっかく贅沢な時間を過ごしているのに、ぶち壊しだ。 蕎麦がどうのこうのというよりも、贅沢な時間が過ごせる。その空間での楽しみの方が大事と思うのだが。そういった空間は、今、蕎麦屋以外にはないのではないか。BARでは気分が重いし、居酒屋では軽い。スターバックはちゃらちゃらだし。HOTELのラウンジはペラペラだ。大人が都会で憩える場所はなかなか無いのだ。 それに「遠くの名店より近くの馴染み」でなければならない。 山でも蕎麦屋でも、昔からピークハンターのような人がいて、あっちへ行った、こっちへ行ったと、ガイド書にチェックを入れて、まるで巡礼のように100なら100を全部回ろうとする。「行く」ことよりも「居る」事の方に憩いはあるし、心の楽しみや豊かさもあると思うのだが。 ともあれ、たとえば『傘亭』のような店に足をのばされてはいかがか。発見があるかも。 | |
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| ◆<安心の構造ーその1> ◆伊藤 ◆07年10月04日 14:24 | |
| 最近、ことある事に「食の安全・安心」などと、「安全」と「安心」を並べた表現がやたらと目につく。たしか四、五年前に起こった雪印乳業事件の際に関係者が「日本の消費者は安全だけではなく安心も求めていることを認識しなければならない。」というようなことを語ったのがこの表現のはしりだったのではないかと記憶している。以前は単に「食品の安全性」という表現だったものが、今年生じた牛肉擬装事件以降特にこの「食の安全・安心」という表現が多用されるようになった気がする。 この表現は福田首相の所信表明演説でも頻繁に使われ、「国民の安全・安心を重視する政治への転換」という部分で「安全」と「安心」とがすべてセットになって合計六回も使われている。 しかし、私はこの「安全と安心」という表現にはどことなく違和感を覚える。そこには、客観的な事実が問題になっているところへ情緒的なものを持ち込むという日本人の悪い癖が現れている気がしてならないのである。 「安全」とは客観的な事実を表現する言葉であり、英語では safty や security 、ドイツ語では Sicherheit といった言葉があてはまる。これに対し、「安心」という日本語に対応する言葉は英語やドイツ語には見あたらない。和英辞書や和独辞書で無理やり「安心」を引いてみると、peace of mind とか freedom from care あるいは sich beruhigen とか sich erleichtert feuhlen などといったわけのわからない訳語が出ているが、これはむしろ「安心感」という言葉に近く、「安心」の訳語からはほど遠い感じがするのである。 「安心」という日本語にピッタリの訳語が欧米の言葉にないのには訳がある。なぜなら「安心」という言葉はもともと仏教の用語だからである。安心とは、仏教では自己の心の真実のありかたの明らかな自覚によって心を不動に安住せしめることであるとされる。しかし、ただ不動であるものはすでに心の働きを失ったことであるから、安住不動といってもけっしてただ不動であるということではなく、動いているままが真実にかなっているということなのだそうである。 しかし、新聞テレビの報道や首相の所信表明演説で使われている「安心」とは仏教で言うような深遠なる心の状態を指しているのではなく、あれこれ心配したり思い悩んだりする心理的な負担から逃れたいという意味で使われているようである。そこには安全の問題は企業や政府に任せきりにして、自分は何も考えないでいたいという他者依存と思考停止の臭いがしてならない。 なぜ日本の社会は、「安全」という客観的な問題につけ加えて「安心」という個人の心の状態までもコミットするようになったのであろうか。「安心」は「安全」という事実を各個人が確認したり信頼したりすることによってはじめて得られる心の問題であるにもかかわらず、それを企業や政府が保証したりしようとしているのは、いったいどういうことなだろうか。国民の方も、このような心の問題を企業や政府に委ねてしまってそれこそ本当に「安心」できるのだろうか。もし、安全の問題を自分以外の第三者に任せきりにしておいて自分は安心しきって何も考えないとしたら、それはかえって「安全」からは程遠い最も危険な行為となるであろう。安全とは、安全を脅かす原因を取り去ってシステムの改良・改善に努めるととともに、日頃からの確認点検を怠たることなく常に注意を払いながらシステムを運用することによってはじめて得られるものなのである。 その注意を放棄してただ単に安心していたいというのであれば、「安心」は「安全」の敵となってしまう。その意味で「安全」と「安心」とは一種の対立する概念であり、それを一緒くたに「安全・安心」と言うのでは自己矛盾もはなはだしいことになる。 何かにつけてこの「安心」という言葉が幅を利かせる社会は世界的にみてもかなり特異な社会であると言わざるを得ない。 であるならば、「安心」という言葉は日本人の精神構造を読み解くキーワードであると言っても過言ではないであろう。次回から、日本人にとっての「安心」とは何を意味するのか、別の角度から検討することにしよう。(続く) | |
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| ◆囲碁道草論 ◆バニラ ◆07年09月12日 12:50 | |
| 元の会社のOB会報に寄稿した文をご覧願えますか 囲碁道草論 私は小学4年生頃囲碁を覚え以来今日まで気が向いた時打ってますが勝つと喜び負けると悔しがる初心者の域を脱していません。 どちらかと言うと私は勝負より勉強を楽しむタイプらしい。切った張ったのスリルは勝負師の命でしょうがそれよりもレッスン書に紹介されている技を観賞習得することに無上の喜びを感じます。その内容は筆舌では表せない精緻を極めたもので四方八方へ気の配り相手の変化に対応した対策を網羅した頭の回転の良さにただただ感激するばかりです。 しかもそういう技が幾つも幾つも複合して姿を変えながら敵を追いかけ最終的には勝ちきってしまう力強さに拍手をおくります。 私はインターネット碁も始めましたので全国の愛好者と打つ機会に恵まれ楽しんでいます。凄い高段者から初心者まで、相手さへ了解していただければ直ぐ打つことが出来ます。相手の顔が見えないので初めの頃は何ともいえない違和感があったものの慣れてくれば気になりません。顔が見えない代わりに掲示板やらホームページがあって自分の意見など文章で発表できるような仕組みがとられています。 私も碁の上達の傍ら囲碁道草として囲碁のホームページ「初心者囲碁3館」を発表し、月に2回定期的に新版を追加しています。 囲碁は碁盤を使用してのゲームですから囲碁と碁盤は切っても切れない関係にあり、石の形は碁盤の函数だろうとの仮設を建て碁盤側から見た囲碁道草論を展開しています。これが囲碁の解析に役立てば望外の喜びです。 其の考察をホームページに其の都度発表しています。 其の幾つかの概要を紹介させていただきます。 石間の距離の不思議 基点の石と横方向にある石との距離は連であれば1、一間であれば2、二間であれば3のように整数です。縦方向も同じです。(但し碁盤の目の幅は縦横とも1であるとする) 縦横以外の斜めの方向に石が置かれるとその石間の距離は必ず無理数になります。(ピタゴラスの定理) 囲碁の華は切った張ったの切断にありと言われます。この切断のややこしいのが斜め切断です。斜め切断は得てして無理筋気味が多いのが囲碁の特徴ですが、この斜め切断タイプは数字的にも「無理数」と言う駄洒落的語呂合わせになっています。 青竹を割ったような性格の方は縦横方向の整数を力自慢の方は斜め袈裟切りの無理数を無意識の内に選んでいるかもしれません。 碁盤の縦横線と碁盤には描かれていない斜めの線 碁盤には縦横19本計38本の直線が敷かれていますが、斜めの線は描かれていません。しかし昼間のお星様は目には見えないけれどあるんだよの童謡の如く、碁盤にも斜め線は描かれていなく目には見えないけれども本当はあるのです。 本当は万を超える数の斜め線が存在し高段者になると心眼でよく見えるらしです。ドライブでカーナビがあるかないかのちがいです。地図を頼りの初心者とは段違いです。 ダイヤモンド碁盤 碁盤は対局者に縦横に置かれていますが囲碁の本道から考えると対局者に菱形に置くダイヤモンド碁盤式(公式野球場のネット裏観戦式)が良いと思います。すると切断などの大事な線が普通は斜めで初心者は見落と易いがダイヤモンド碁盤では縦横になり大変見易くなります。人は何故か斜め線は見ずらく目でなぞっていきますが縦横線なら瞬間に行き着く果てが分かります。シチョウなどはその最たるものです。ダイヤモンド碁盤ならシチョウは直ぐにも卒業です。 効率よい地積のとり方 囲碁は最終的には地積の大小で勝負が決まるので戦いを別にすれば如何に効率良く地積を稼ぐかですが、其の効率で最も大きいのはスケールの大きさです。小さい地を沢山作るよりどでかい地を一つ作る方が良いことは自明の理でありますが、案外知られていないことにコスミで囲うと大変効率がよいことです。コスミの連携は後でカケメになったり、切られたりするのでやや嫌われ気味ですが、効率的には断然有利です。何しろ石間の距離が縦横ですと1ですがコスミは√2=1.4142 ですから面積になると其の2乗で何と2倍になります。少しくらい後で補正したとしても断然有利でしょう。地にも強く、戦いにも強いコスミ打法を研究したら勝率が良くなるかもしれません。 碁盤の位置ポテンシャル 碁盤の中央部分、辺、隅では其のポテンシャルは全く異なります。勢力は中央ほど強く、辺、隅と端に行くほどに特殊性が生じ非常に奇妙な複雑な性質により初心者を悩ませます。これが囲碁の醍醐味なんでしょうが不思議な現象です。 何かピラミッドのようでもあり、曼荼羅特に中台八葉院のようでもあります。これらを統括的に説明出来る見識を発明すれば素晴らしいと思います。 囲碁ナスカ絵 囲碁進捗の元となる碁石の連続打の基本、連コスミ一間ケイマの4種を一つの作図法則の下に一図に表す方法を発見しました。 この4種は互いに関係あるようなないような存在に思われますがこのような形で4種が一表に出現するということは互いに函数関係に有ることを物語っています。 簡単な作図法で囲碁の基本4種が表せるこの発見は囲碁史に残る大発見で百年後に其の価値が認知されるものと思います。囲碁の基本はケイマにあるらしく思えます。 この作図法のミソを申し上げますとベースに内ケイマ四角を使用したこと、辺2.3・・倍の相似形を描きそれを一路右にずらして配置したことに有ります。すると不思議にも4種がアンテナ状に現われます。何故かはクイズです。挑戦してみて下さい。 この作図法を図に示しました。 これら以外にホームページに色々発表いたして居ります。 私の囲碁ホームページをご覧願えれば幸いです。先のクイズの答えも書いてあります(面白館18.11.5号ナスカ絵謎解き)。 | |
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| ◆中野坂上便り 〜 その二十六 〜 ◆谷口 一 ◆07年08月16日 16:18 | |
| 前回の続きのような話。 世の中に目出度きものはそばうどんはじめ鶴つるあとで亀かめ 蕎麦好きの知人が上京するというので、さてどこに案内しようかと。先日、日本橋の『室町砂場』へ偵察に。若くして亡くなったごぞんじ古今亭志ん朝の行き付けの店。ここの亭主は入院中の志ん朝に蕎麦を届けたという。 志ん朝のオーダーはいつも決まっており、まずはビール、酢の物と玉子焼きで酒に切り替え、最後は熱いかけと冷たいもり。両方を食べたという。 これにならって。 坪庭に面した席に一人、ラガーを飲み、酢の物の梅肉添えの爽やかさとシャコの歯ごたえに舌鼓。酒は菊正。ちょっと甘めの玉子焼きに東京を感じ、常温で一本、また一本と。ちょっとクーラーが効きすぎか。最後は熱燗で。 ごく当たり前の蕎麦屋。テーブル、椅子、店員さん達。三時前でぱらぱらのお客。年配のご夫婦、背広のおじさんが一人、あっちにも一人、品のあるおばあさんがぽつり。奥の方にもまたぽつり。 ここには小一時間は居座っていたいなと思わせる何かがある。この何かが名店と呼ばれる所以か。気分が憩うのだ。日常の中のオアシス。椰子の木陰のハンモック。 食い物屋というのは、なにが旨いなんていう以前に、入った瞬間座った瞬間に勝負ありなのではないか。無意識の接待の気持ちみたいなものが、店の空気としてあるのではないか。立ち飲み屋でも、最近そんな風に思う。憩える感じ。ほっとする空間。小一時間の至福。 もりを食べる。かけでしめる。 そして、朱塗りの湯桶の蕎麦湯。これを啜るために酒を飲み、蕎麦を食ったのだという気がする。注ぎ足すうちにだんだんとつゆは薄まってきて幽玄の味。蕎麦湯残さず全部飲む。 四時、豊かな気分で店を出る。また来ようと思う。 幕末、江戸には120万人が暮らしていた。当時の蕎麦屋の数4000軒。現在、人口はその十倍以上、蕎麦屋の数6000軒。江戸期の4000軒はあまりに多い。いかに江戸庶民が蕎麦に親しんできたか。江戸っ子にとって、安価で能書きが言えて食通ぶりになれる。これほど愉快な食い物はない。きっと蕎麦屋番付なんかもあって、うすっぺらな食通ぶりっこ連が、あっちでピーチクこっちでピーチクとかしましい事しきりだっただろう。 信州柏原の俳人小林一茶ここで一句 そばの花江戸のやつらが何知って 江戸期すでに蕎麦屋で酒はポピュラーであったようだが、江戸の風俗を伝える貴重な文献として知られる『守貞謾稿』によれば、蕎麦十六文、上酒四十文とある。この上酒というのは「下り酒」すなわち西国から来た酒、上方の酒、灘・伏見の酒と思われる。当時関東産の酒は「地廻り」と呼ばれ、上方の酒に比較して一段も二段も下のものとされていた。現在、蕎麦と酒一合はほぼ同価格。当時の上酒の量が不明だから価格の比較は難しいが、二合徳利とすれば、蕎麦と酒は現在とそう変らない価格設定となる。職人の日当が2百文〜3百文の時代、上酒は贅沢か。宵越しの金は持たぬ江戸っ子なら、気にもせず飲んだか。能書きたれて、食通ぶって。この辺は現代人にも通じるが。 いささか自戒をこめて。独眼流伊達政宗公の五常訓から。 この世に客に来たと思えば何の苦もなし 朝夕の食事はうまからずとも誉めて食うべし 元来、客の身なれば好き嫌いは申されまい | |
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| ◆<草取りと日本文化> ◆伊藤 ◆07年07月27日 15:46 | |
| 少し時がたってしまったが、5月の連休に空き屋となっている実家に帰省し、庭の草取りをやった。テラスの前がかなり広い芝生になっているのだが、ドクダミとトクサによって周囲から浸食され、年ごとに芝生の版図が狭まってくるのを何とか食い止めたいと思ってのことである。特にドクダミは芝生以外の地面にも大量にはびこり、このままでは、我が実家は年を経ずして文字どおり"ドクダミ荘"と化してしまうのではないかという深刻な事態を迎えている。 そこで自分としてはかなりの気合いと時間をかけて草取りに精を出したのであるが、慣れないことを不自然な姿勢でかやったシロウトの悲しさ、とうとう腰を痛めてしまった。少しでも楽な姿勢でやろうとして、風呂場の腰掛けを持ち出し、それに座りながらやってみたのだが、その工夫の甲斐もなく腰痛に悩まされる羽目とあいなった。 後になって感じたことなのだが、マイペースで草取りをやっていれば腰痛もずっと緩和されただろうに、ついついムリをしてしまうのはなぜなのだろう。草取りには魔力がある。いったん草取りをはじめると、それに夢中になってちょっとやそっとではやめられなくなってしまうのだ。やり残しを残したまま適当なところで切り上げるという踏ん切りがなかなかつかないし、草を取ればとっただけその部分がきれいになって自分の成果が目に見えて拡大するという小さな喜びも味合うことができるし、手を動かして草や土に触れるという原始的な楽しみもあるのだ。 このような性質を考えると、草取りには草取り自体が自己目的化しやすいという性質があるように思われる。それ自体が自己目的と化すとどうなるか、それは、全体や大局を見る目が失われ、やめる勇気も持ちえず、合理的かつ自省的な判断を下すこともできなくなるといった大きなマイナス面をかかえることになるのである。 話は変わるが、囲碁も、草取りとよく似たところがある。いわゆる打ちすぎというヤツである。夢中になるとやめられなくなり局所を気が済むまで打ってしまうという事態がよい結果をもたらすことはありえない。 さて、草取りや草取りの対象である雑草に関する欧米人の考え方はどうであろうか。以下に二三の例を紹介しよう。 「・・・雑草(害草)とは何か。そう、その徳(長所)がまだ発見されていない植物である。 」R・W・エマーソン 「・・・雑草(害草)は、ただ愛されていない花にすぎない。」E・W・ウィルコックス 「西洋では雑草(weed)と草(grass)という区別をし、前者を「悪」、後者を「善」とするのに対して、日本人の"忌嫌"は双方に平等であるらしい。しかし、どうして草、とくに芝生というものは日本より欧州の方で好まれるのだろうか。一つの理由は、日本での「草取り」は西欧より大切で、日本の農民は草、どんな草でも天敵だと思っている。もう一つの理由は、西欧人は家に入っても靴を脱がない、日本人のいう土足、泥靴という汚いものは家に入れたくない。そこで芝生は大事な役割をはたす。」(ロビン・ギル) 以上のような欧米人と日本人の雑草に関する見解や態度に対しては異論もあるだろうが、何と言っても大きな差異を生み出した原因は、気候の差であろう。日本は、雑草が育つのに、また手作業の草取りによって雑草を駆除できる程度に雑草が育つのにもっとも適した降雨量、日照時間、気温、生育期間といった自然条件をそなえているのである。これに対し、欧米ではそのどの条件も日本にくらべて劣り、したがって雑草の生え方もずっと貧弱になる。森の下草の生え方などをくらべてみても、日本ではいわゆる藪草に邪魔をされて森の中に分け入ることが難しいのに対し、むこうではわりあい簡単に森の中を散歩できる。 雑草の除去というのが古来から日本の農民に課せられた宿命みたいなもので、それが習い性となって、いつも草を抜いていないと落ち着かないという精神構造ができあがってしまっているようだ。休暇の取り方、旅行の仕方をくらべても、欧米人が同じ場所で長期の休暇を楽しむのに対し、日本人は短い休暇をとってはかけずり回るように見て歩くことが多いが、これはどうも草取りの習慣から来ているように思えてならない。 この草取りに由来すると思われる日本人の精神構造は、目先のことのみを過渡に重視し、その背景に隠されている原因を追及したり、長期的、合理的な判断にもとずいて物事を計画的に遂行するといったことは苦手であり、関心もまた薄いという、大変困った国民性のもとになっているようである。この国民性は弥生時代以前からの習性に根ざしているゆえに、いくらグローバリゼーションの世の中とはいえちょっとやそっとのことでは改まらないであろう。 | |
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| ◆中野坂上便り 〜 その二十五 〜 ◆谷口 ◆07年07月16日 13:30 | |
| 別に蕎麦喰いという訳でもないし蕎麦に関しての薀蓄もない。蕎麦の記憶といえば、かなり前、会社勤めをしていた頃に、万事博学の先輩に吉祥寺の「砂場」に連れて行ってもらい、蕎麦屋で飲むことの楽しみの一端を教えてもらったくらいである。しかしまだ青かったのか、蕎麦屋で飲むは馴染まず、いつのまにか忘れていた。 しかし最近、杉浦日向子さんの蕎麦話をパラパラと読んで、蕎麦屋の何軒かは頭に残り、縁あればと思っていたところ、ひょんな事から記憶にあった甲斐の長坂の「翁」に寄ってみる機会が、先日あった。「翁」は清春芸術村のすぐ先の林の中にある、山荘風の蕎麦屋である。大きく取った窓に緑が迫ってくる。蕎麦に大事な水が旨い土地だなとすぐわかる。葉の落ちた季節には、きっとすぐそこに山の団十郎と言われる「甲斐駒ケ岳」がそそり立っているはずだ。よくここに店を開いたものだ。またよくここまで来る客がいるものだ。11時開店、15時閉店。営業4時間。本来ほんとうの蕎麦というのは、それぐらいの時間分というか人数分しか仕込めないのだろう。 自分の目で確かめた蕎麦の実だけを仕入れ、この場所で製粉し、こね、茹で、客に供す。 幸運だった。太く黒々とした「田舎そば」を食べることが出来た。次の客からは品切れとなったのだから、本日最後の物を食べられたのだ。蕎麦をすする。歯ごたえの妙、ほんのり蕎麦の香り、喉越し、本山葵がつゆの味をしめる。酒は栃木の「四季桜」。言うことなし。ちょっと蕎麦喰いの気持ちが分かったような気がする。蕎麦850円也。ホトトギスが鳴いている。 その清春から甲州街道に出て先へ進むと、道の駅「信州蔦木宿」がある。数年前ここの農産物売り場で、未知の植物に出会った。太いフキといった様相で、葉は取ってあり茎だけが4、5本束ねてあった。その太い茎も三分の二程は暗紅色で、ズイキの色に似ている。手書きの説明文のコピーがあり、名は『ルバーブ』とある。ジャムにすると書いてある。ブルーベリーも杏も苺も林檎も実をジャムにする。この未知の植物は茎をジャムにするという。3cmほどにブツブツと切って鍋に入れ煮る。煮続けるとどろどろに溶けてきてジャムの感じが出てくる。砂糖を入れて甘さを調整してさらに煮る。酸味を残した甘さ加減にする。30分ほどでジャムが出来上がる。冷まして完成。こんな手軽なジャム作りは他にない。 9枚切の食パンをカリカリ狐色に焼いて、バターを薄く塗り、たっぷりとルバーブジャムをのせる。かじる。ジャムの酸味がバターの塩分と合い、カリカリのパンの歯ごたえの中で、植物の甘みを引き出す。この酸味がこのジャムの命だ。 ルバーブは信州の農協のスーパーで時々見かける。あればあるだけ買い込む。東京では紀伊国屋にあるらしいがきっと高価だろう。馬鹿らしい。軽井沢ではジャムにしたものを売っているという。が、これも高価であろう。保存剤が入っているかもしれない。 茎を農協スーパーで300円も買えば、大きな瓶にいっぱいのジャムが出来る。本当は安価で気軽に作れるものなのだ。週末は目下、一年分のルバーブジャムを作るために、東に売っている店があると聞けば車を飛ばし、西に畑を見たと聞けば野山を駆けて、信州の町々山々をうろついている。 そうやってあっちこっちに出没していると余得もある。あそこに山葡萄、あっちにマタタビという具合に内緒の採集地候補が増えていく。これが山暮らしの財産になり、楽しみでもある。6月の雪の消えたスキー場の急斜面に見つけた、ウドの採取場はそんな財産の一つだ。わずか数ミリ地上にのぞいたウドの先端を見つけ(見つけ方は内緒)、ナイフを土深く差し込み、土の中でそのウドを切り取る。地上にウドの香りが広がる。このまま喰っても旨い。この香り。こればかりはこの場に居合わせた者にしかわからないし、絶対に言っても書いても伝わらない。 辺境はいつも花盛り。野山は早、山菜から木の実きのこの季節に移っていく。身も心も日々ますます辺境へとシフトしていく。その加速の速きこと風の如く。 まずは近況まで。 | |
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| ◆風を痛む ◆コスミ ◆07年05月12日 19:02 | |
| この痛み何にたとへむ千尋なる海底に沈み揺らる思ひか 地獄なる鬼卒に告げむ汝らの責苦に勝る痛みもあると 数年前わたしが尿管結石で苦しんだときひねり出した歌です。文字通り苦吟でした。 ところがこの数日前から、今度は痛風にさいなまれています。病気に痛みはつき物ですが、この二つの病いは痛みの双璧といわれています。 結石のときは内臓の疾患ですから、下腹部から腰にかけて全体に切り込むような激痛が続きました。それでも多少の間歇はありました。痛風の痛さはさらに激越です。局部的ですからまさにいても立ってもいられないという感じで、しかし居ても立っても寝ても浮かしても下ろしてもどうにも止まりません。ちょうど足を挫いたとき、ちょっと不注意に動かすと思わず「イタッ」と声を挙げるような痛みが間断なく続くのです。 何の因果でこの二つの痛病に見舞われなくてはならないのか。 予兆はありました。以前から人間ドックや定期健康診断の際、尿酸値がすこし高いですねといわれていました。また、数年前から年に2,3回右足の親指の関節が痛むことがありましたが、半日か一日くらいで消えてしまうため気にも掛けずにいたのです。 痛風は俗に「ぜいたく病」といわれているように、美食大食漢がなるものだとおもって、私などごくつましい食生活で、尿酸値もそれほど高くないので、まさか自分が襲われるなどおもってもいませんでした。 五月の連休混雑期がすぎたので、久しぶりに一泊温泉旅行にでかけようかと、スケジュールを組み、旅館やキップの手配を終えて、予定の三日まえ右足の痛みが始まりました。 親指の関節のあたりが少し腫れているようです。いつもの症状だと軽く考えて、そのうち収まるだろうと思っていたところ、だんだん厳しくなる一方で歩行も困難となってきました。 渋々近くの整形外科へでかけたところ、まず痛風の疑いがあるといわれ、検査を受けましたがその時は内心まだ本気にしていませんでした。 その日の夜でした。夜中の1時頃ますます痛みはひどくなり、ひいひい呻きながらその後一睡もできず朝を迎えるハメとなったのです。あわてて旅館やキップのキャンセルをして、病院の検査結果を聞くまでもなく、正真正銘の「痛風」と納得した次第です。 インターネットのブログを見ますとやはり出ていました。 痛風経験者の闘病日記が。 まったく私とおなじ経過をたどっています。その方はその後も何回も発作が起きて苦しんでいる様子で、私もそうなるかとそら恐ろしくなりました。 もっともその方は相当のグルメで、お酒も結構お好きなようです。さあこれからの自分の食生活に十分気をつけなければ。ビールがいけないとはくやしいね。 発症からちょうど1週間たった今日現在、夕べあたりからようやく痛みは治まり、そろりそろりと歩けるくらいになりましたが、あの恐怖の3夜はおもいだすもおぞましい。 しかしこの間「囲碁」の対戦はほとんど休みませんでした。というのも寝る時間の前までは薬の効いているせいかそれほど痛まないからです。 でもその姿勢たるやひどいものです。お相手していただいた方にはたいへん失礼ですが、椅子に掛けて両足をデスクに投げ出し腕だけ伸ばしてクリックします。当然画面は目から離れ、あまり手元が定まらずポインタがねらった位置からずれることもしばしばでした。 いつもの私のメチャクチャ碁がますますみだれてきます。対戦相手にはずいぶんご迷惑をおかけしたかもしれません。 それでも私のいいかげんの着手にしっかりと応手した方は大勝され、冷静で技量のある方と思います。反対に勝てなかった方は、きっと私のデタラメぶりにとまどったためかと存じます。どうもゴメンナサイ。 病気に関係なく今後もムチャクチャぶりを発揮したいと思っておりますので、どうぞお相手をお願いします。結構オモシロイ碁が打てますよ。 (近頃エッセイがとんと見られないのはさびしいですね) | |
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| ◆脳梗塞のリハビリと囲碁 ◆帰クレイン/事務局 ◆06年11月28日 17:51 | |
| 以下は、"帰クレイン"様と事務局とのメール交換記録です。 囲碁倶楽部事務局殿 帰クレイン事、鶴孝之は脳梗塞の克服のための囲碁対局を、あきらめました。 何度もお手数をお掛けしますが退会の手続きをお願いいたします。 努力の甲斐なく敗退いたしました。 脳梗塞の影響で、手順を考え記憶する力が想像以上に全く弱くなっておりすぐ間違えてしまいます。 相手の方に、いやな思いをかけるだけです。 ”待った”の出来ない今のル−ルでは、リハビリ効果は求められません諦めました。 残念ですが、退会を決意いたしました。 宜しくお願いいたします。 早々 鶴 孝之 拝 鶴 孝之 さま メールをいただきましたが、お返事が遅れて申しわけございません。 ご病気のあと再び囲碁対局を始められるという前向きの姿勢を拝見して、事務局一同、鶴様をひそかに応援しておりました。 脳梗塞の影響ですぐ間違えてしまわれるとのことですが、勝敗はともかくとして、毎日囲碁をやって考える習慣を継続するだけでもリハビリあるいは脳の退化を遅らせる意味はあるではないかと思います。 それに、鶴様より下位の方も数多くおられますので、同じレベルあるいは少し弱い方と対局するのであれば、相手の方にいやな思いをかけるようなことはないと思います。 退会はいつでもできますので、あわててやめてしまわれるのはもったいないような気がします。今一度考えなおされてはいかがでしょうか。 また、休会という、一定期間休む制度もございますので、それを利用されるのも一つの方法かと存じます。 勝手なお願いですが、もう一度再考して頂きたく、よろしくお願いします。 9月25日 囲碁倶楽部事務局 事務局の皆さん 返事有難うございます。もう一度頑張ってみます。またご連絡します。 鶴 孝之 拝 通信対局・新 の 担当者 様 お名前を存じ上げませんので、前便の返事の形で報告を申し上げる失礼をお許し下い。 いよいよ、級位者大会も後一週間を残すのみとなりました。大変長い間お世話になりました。大会の終了に際し是非お礼と報告を申し上げたくメールを差し上げます。 まず、第一の報告事項は級位者大会に参加申告の(脳梗塞で入院する前の)級位に戻ることか出来た事です。前便を発信しましたときは、退院の半年後でしたが、一月も経たぬうちに11級まで落ち込み、全く悲嘆にくれて退会を申し出た時でした。 今は、貴方からの激励のメールを頂き思い留まることが出来て本当に良かったと思っております。 第二の報告事項は、病後のリハビリ効果の顕れに関してです。あれから三ヶ月、対戦成績は、最初は全く上がりませんでしたが、十一月に入った頃から体調も良くなり,級位も急速に復活することが出来ました。囲碁大会をはじめリハビリの効果が現れた為だと思っています。私の大会参加記録を調べて頂ければ歴然と致しております。 今では手足の痺れも殆どなくなり歩行時の杖もいらなくなり、足元も軽く運べるようになっています。医者からは例を見ない程の回復度合いであると太鼓判を押される迄になりました。 あの時、貴方から激励して頂いたから、囲碁大会に参加し続けたおかげであると感謝しております。 囲碁は、脳梗塞のリハビリには最適の思考訓練の効果を持ち、他のリハビリの効果を増加させるのに役立つことを、身をもって証明できたと信じております。しかし、辛抱して続けることが大切です。貴方のおかげです。 同病に悩んでおられる方に是非お知らせしたい程です。 お礼と報告を兼ねてメールを差し上げる事に致しました。 貴方の今後の更なるご活躍を祈念してメールを終わります。 本当に有難うございました。 さようなら。 早々 (帰クレイン)事 鶴 孝之 拝 | |
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| ◆香林坊 ◆伊藤 ◆06年05月26日 16:23 | |
| 旧制高校の学生だった頃の話である。その日、学校をさぼって昼間から香林坊あたりをぶらつき歩いていたら、とある空き地で人だかりがしている。何だろうと思い近づいていくと、立派な軍服に身を包み、八の字髭をはやした一人の将軍が何人かの属僚や副官を従え、一段と高くなった壇上に悠然と立っているのが見えてきた。 ちょうどそこへ公用か何かで外出中の五六人の兵隊が通りがかった。それを引率していた下士官は将軍の姿を目にすると、やおら兵隊たちに向かって歩調をとれと命令し、自ら先頭に立って号令をかけながら将軍の前まで行進してゆき、兵隊たちを整列させてからおもむろに、 「将軍閣下に敬礼!カシラー右!」 と大声で叫びながら将軍に向かってうやうやしく敬礼をしたのであった。 これを受けて将軍も威厳に満ちた悠揚迫らぬ態度で何度もうなずきながら答礼した。この将軍の堂々たる態度は、ただもう見事と言うほかなく、周りを取り囲んでいる群衆は固唾をのんで見とれていた。と、その時突然、群衆の中から拍手が一斉に湧き起こった。すると敬礼したままの下士官の顔はみるみる真っ赤になっていった。ここに至ってようやく事の次第を悟ったその下士官と兵隊たちは、こそこそと逃げるようにしてその場を立ち去ったのだ。 自分もその時初めてそれが映画のロケであることに気がついたのだった。 | |
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| ◆中野坂上便り〜その二十四〜 ◆谷口 ◆06年04月26日 10:21 | |
| 特にこの時期、土に親しみたくなる。健康そうな黒々とした土を見るとうらやましく、たっぷりと欲しくなる。よその庭も気になるし、ホームセンターや園芸店の店先も気になる。天候も気になり、雨を待ち、雨を喜び、晴れを待つ。そして休日を待ちわびる。 インターネットの園芸サイトをあれこれと見たり、本屋で園芸雑誌を立ち読む。カレル・チャペックの『園芸家の12ヶ月』をいつも身近に置いて、ターシャの庭を夢想する。 まあ、しかし一歩一歩。「ローマも庭も一日にしてならず」だ。 いっぱしに肥料もいろいろ気になる。牛糞か鶏糞か。牛糞の方が育ちがよさそうに感じる。 なぜか?値段が高いから。この世界、土も種も苗も苗木もシャベルも長靴も軍手もすべて値段が高い方がいいものと思えるのだ。安い方を買ったら絶対に後悔する。たとえば何かの苗、1ヶ月経ってもろくに育たない。ヒョロッとしたまま。自分がきちんと世話をしていないのなんかすっかり忘れて、あの時もっと高いのを買っておけば今頃は花芽がたっぷりと出ていた、なんて思ってしまう。そして、ヒョロッとした苗はそのまま忘れ去られて秋の終わり頃、作業小屋の裏でドライフラワーと間違えられたりする。 堆肥。窒素。燐酸。カリ。ミミズ。生ごみ。コンポスト。土作りが一番とはわかっている。しかし、まずは開墾だ。立ち木を切るためにチェーンソーも買い込んだ。しかし、開墾に最も必要なものは、ダイナマイトだと今は思う。 荒れた地に20分も鍬を打てばへたってしまう。さまざまな根が鍬のじゃまをする。鍬にへばりついた土塊が振り上げるとまともに頭に落ちてくる。その土片が背中まで入ってくる。土に隠れた石ころを鍬がたたく。嫌な音がする。いつも足場は悪い。振り返っても先はまだまだ長い。 倒した木の切り株がある。根切り鍬、斧、のこぎり、スコップを総動員して、切り株一つ退治するのに二時間はかかる。たかだか直径10cm程の切り株さえ。根は偉大だ。四方八方に深く浅く長く短く手を伸ばして、がっちりと土を捕まえている。ひょうひょうと立っている一本の立ち木も、土の下ではしっかりと歯を食いしばっているのだ。誰しもここでダイナマイト一発あればと思うはずだ。 立つ、しゃがむ、座る、中腰、かがみこむ、背のばし、ねじる、片膝立ち、横歩き、後ろ歩き、ありとあらゆる動作を繰り返し、なんとか第一耕(こんな言い方があるのか知らない)を終える。 腕はパンパンにはり、握力はなくなり、腿の後ろが攣り、首肩が凝り、腰に鈍痛。おまけに長靴の中は石ころだらけ。軍手をぬげば、爪の中まで真っ黒。 土と親しむまではなかなかいけない。格闘だ。土と格闘だ。話すのも面倒になり、日が暮れて、使った道具類を洗い片付け、風呂場に倒れこむ。 第二耕はカラスの鳴き声で起きて、日の出前から開始。前日と同じ所を最初から耕し直すのだ。三本爪の鍬を使う。出来る限り根を取り除く、石ころを取り除く。しゃがむ、しゃがむ、しゃがむ。土をほぐす。強情な根を両手でひっぱる。切れる。尻餅を着く。夜明けの空が見える。立ち上がる気力も一瞬なくす。そのままその格好でしばし休む。すごすごと立ちあがり、根きり鍬で先ほどの切れた根の伸びているであろう場所に向かって、渾身の力で鍬を打ち下ろす。 朝飯前の仕事とはよく言うけれど、軽い仕事とかやさしい仕事ばかりとは限らない。朝飯前にやらなければならない仕事もあるのだ。 今週は絶対にここまでやっておきたい、そして来週末は。頭はどんどん前に進んでいく。作業が追いつかない。追っかけ続けなくてはならない。山の春は短い。 さて、200kgの鶏糞を車から降ろさなくてならない。 まてよ、やっぱり牛糞の方がよかったかな。 | |
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| ◆日本橋 ◆伊藤 ◆06年03月01日 18:34 | |
| 日本橋再生より無電柱化が先では 東京・日本橋の上の首都高速道路を移設して、景観をよみがえらせようとする計画が動き出している。この計画は、日本橋に青空を取り戻そうという地元の人たちの運動に小泉首相が乗った形で進められているようだが、国土交通省の懇談会は、高速道路を地下に埋設するか、高架のまま迂回させるかに絞った案を出したと報じられている。その試算によると工事費の総額は3000億円から6500億円と見積もられている。 日本橋を再生するという目標自体は誠に結構な話ではあるが、このような巨額の費用を聞いて大いに疑問がわいてきた。というのは、同じ景観の再生という視点に立つならば、もっと先にやるべきことがあると思うからである。 それは、日本の、あるいは東京の無電柱化という問題である。街中であれ郊外であれ、住宅地であれ田園地帯であれ国土の至る所を覆い尽くす電柱電線は、景観を害することこの上ない。私はかって外国人を案内する機会を多くもったが、ある時地方を案内していたドイツ人から、日本の風景にはがっかりだ、電柱電線がなんとも目障りでせっかくの景色を台無しにしているではないか、日本人はこれを何とも思わないのか、といわれたことがある。なるほどドイツでは、どんな路地裏でもどんな田園地帯でも1本の電柱さえ見つけることはむつかしい。またドイツ以外の欧米諸国へ行っても、ドイツほど徹底してはいるわけではないが電柱を目にすることはまれである。さらに、中国、韓国、台湾などの諸都市を見ても日本よりかなり無電柱化が進んでいるという印象を受ける。いずれにせよ日本は無電柱化という点では諸外国に大きな遅れをとっているのはまぎれもない事実である。 それでは、この無電柱化のための費用はいったいどの程度かかるのであろうか。私が住んでいる区の道路公園課で聞いた話では、無電柱化する費用は電柱1本あたり300万円ということだった。また、無電柱化を推進する都の担当課で確認したところ、費用は道路の片側1mあたり18万円から27万円程度という話であり、これは電柱間の間隔を平均20mとすれば、1本あたり360万円から540万円に相当するとなる。これは幹線道路である都道についての費用であり、電柱の大部分は路地裏や歩道のない細道を含む区道に立っていることを考えると、1本あたりの費用はこれよりかなり安くなって300万円前後になるものと考えられる。 一方、電柱の数はいったいどのくらいあるのだろうか。各種の統計資料を参照したり東京電力などに確認した結果によると、東京23区内には東京電力の電柱が約33万本、NTT東日本の電話柱が約23万本、合計すると約56万本あることがわかった。 いまここで、日本橋再生費用の3000億円あるいは6000億円でいったいどれだけ無電柱化できるかを計算してみると次のようになる。すなわち、電柱1本あたり300万円かかるとして、3000億円あれば10万本、6000億円あれば20万本の電柱をなくすことができるのである。これは、路地裏に立っているものを含む23区内の全電柱56万本の実に18%から36%にあたる。これだけの電柱がなくなれば、23区全域の都市景観は見違えるように改善されるであろう。さらに、この無電柱化により都市防災機能も格段に高まることが期待される。 我が国においても無電柱化計画は現在も進められてはいるが、その実績および計画はごく小規模なものにすぎず、電柱の総数に対する達成率は東京23区内でさえ3%、全国平均すれば1%以下という、数字をあげるのもはばかられるような微々たるものである。 同じ予算を使うなら日本橋の再生と無電柱化のどちらを優先させるべきであろうか。それは、一歩自宅を出れば毎日目にする電柱がなくなるという、効果を享受する人の数や頻度を比較しても、また都市防災機能の向上という観点からみても、日本橋の再生より無電柱が先であることは明らかである。 これは、戦闘機1機で保育所がいくつ建つといった議論とは性格を異にしている。それは同じ景観という次元にたった優先順位の問題だからである。 同じ日本橋という場所で愚行を2回くり返すことだけはやめていただきたい。今の日本橋は日本の景観行政を象徴する負の遺産として、少なくとも無電柱化が達成されるまでは、現在の姿のまま残しておくべきと考える次第である。 | |
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| ◆中野坂上便り〜その23〜温泉天国甲州・信州 ◆谷口 一 ◆05年12月14日 17:07 | |
| 日帰り温泉ブームに乗って、あっちこっちに出没しています。東京も西の方には「つるつる温泉」や桧原村の「数馬の湯」があります。 もっと青梅街道を行けば山梨県に入り「小菅の湯」、大菩薩峠を越えれば「大菩薩の湯」と続きます。山梨県まで足をのばせばざっと五、六十の日帰り温泉施設があります。 一番人気は豊富村役場近くの「みたまの湯」、二番が山中湖の「紅富士の湯」、三番目も山中湖の「石割りの湯」と続くようです。「ほったらかし温泉」なんていう、行ってみたくなるようなネーミングの温泉もあります。 もうひと越え長野県に足を踏み入れれば、二百を越える日帰り温泉施設があります。その数だけで湯あたりしそうになります。中には入浴剤を混入し、インチキ温泉に成り下がった白骨温泉のような所もありますが。混入問題が発覚するちょっと前に行った感想は、一言「とにかくひどい所」でした。脱衣場もほとんどないのに詰め込むだけ人を詰め込む。お金を取ればそれでよいという、金の亡者のような所でした。名前が売れるということはほとほと怖いですね。そんな所はごく例外で、たいていの施設は心身ともにほかほかにしてくれます。 露天風呂もほとんどの施設にあります。夏の露天風呂は絵になりませんが、この季節、雪が舞う中の入浴はたまりません。地獄谷温泉には猿専用の風呂があるそうですが、露天風呂は人間と猿だけに許されたまさに裸の楽園です。 究極の露天風呂、それは 以前九州の最南端、指宿の知人宅で見た光景が温泉好きには一つの理想です。掘っ立て風の小屋に年季の入ったヒノキの湯船、ちょろちょろと湧き出る湯、湯はいつも満杯で、もったいなくも常時ちょろちょろとこぼれる。それが近くの川に流れ、川水の温度はいつも高く、熱帯に住む色の付いた魚が泳ぐ。湯には二十四時間好きな時に入れる。 富山、宇奈月温泉のさらに奥、トロッコ鉄道で黒部峡谷を行くと、川原のあちこちから湯が湧く。携帯スコップでMy露天を掘ってつかるのも、また一興。 しかしそれらは持って帰るわけにはいかず、その場に行かねばならない。常時楽しめるわけではない。 常時楽しめて、大自然の中で、My露天。究極の露天風呂、それはドラム缶風呂。ひょんなことからそれを手に入れたのだ。ネットオークションでストーブ用の薪を捜していた時に、目に飛び込んできたのが、「遊び心で作りました。ドラム缶風呂」というもの。薪ストーブの上にドラム缶がのり、煙突まで付いている、まさに理想のドラム缶風呂。青森県の方の出品だった。 落札までの四日間は長かった。それが先週末に蓼科の小屋に届いているのだ。薪の準備もOK。 小屋の水道水は蓼科の湧き水から取っているから、ミネラルたっぷりの柔らかい水だ。それを薪で沸かす。 小屋のまわりはもう30cmほどの雪が積もっている。完璧なロケーション。あとは風呂の中に沈める丸いスノコの制作とドラム缶に入り易くする為に、雪を固めてスロープを作ること。日中でも、もうマイナス5度位だから、どうやってドラム缶風呂までたどり着くかも問題だ。 年末年始の楽しみは深い。猿と一緒に入るには狭すぎるから、せめて鹿や狐が怪訝な顔で覗きに来てくれたらと思う。 湯煙りはもうすぐそこだ。 | |
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| ◆山下寛君、少年少女大会で優勝! ◆事務局 ◆05年08月10日 14:38 | |
| <以下は、週間碁の記事からの抜粋です。> 第二十六回少年少女大会中学生の部は、八月二、三日の二日間、東京・日本棋院で行われ、各都道府県の代表百二名が中学生名人の座を争った。実力伯仲の争いを勝ち抜いて、山下寛くん(静岡・中郷西中二年)と石井大輝くん(広島・磯松中三年)が決勝戦でぶつかった。意表をついた布石作戦に打って出た石井くんに、落ち着いた対応を見せた山下くんが短手数で押し切って白番中押し勝ち。うれしい初優勝となった。 高レベルの戦いへ この大会も歴史を重ねてはや四半世紀。始まった当初と比べると、年少世代の碁に関する環境は激変しているようだ。 なにより、参加者の棋力がケタ違いに伸びた。第一回のころは、初段以上の参加者が小学生で三分の一程度。中学生では三分の二くらいのもの。 それが今では五段六段が当たり前となった。まず、『ヒカルの碁』のブームでこどもたちが目を向けた。そして、「碁を打ちたい」というこどもたちの声に、各地の教室・指導者が受け皿となった。さらにインターネット対局が普及して、こどもたちの棋力は全体的に底上げされた。こどもの大会は史上まれに見る激戦となっている。 初の決勝同士 有力候補が次々に倒れ、本戦トーナメントは混戦模様が深まる。「二日目に入って、ますます大変な熱気ですね」と観戦していた審判長の秋山次郎八段。「拮抗した実力」の十六人のなかから、山下くん(静岡)と石井くん(広島)が勝ち抜いた。両者とも初の決勝進出となった。 山下くんは自宅が碁会所ということもあって、自然に碁を覚えた。少年少女大会には特別な思い入れを持っていた、という。 「去年、この大会の二回戦で負けてしまって、。それがすごく悔しかったみたいなんです」と、お母さんの惠さん。そのころから目に見えて碁へ取り組む姿勢が真剣になった。この大会に照準を合わせて、春頃からは「毎日遅くまで部屋からパチパチ石の音が聞こえた」そうだ。山下くんによると、おもに韓国年鑑を並べていたそうだ。とくにお気に入りの棋士は李世セキ九段。「攻めの強さと読みの深さがすごい」という。 一方の石井くんは『ヒカルの碁』をきっかけに碁を覚えた、というからまだ三年ほど。山下くんが努力家なら、石井くんはマイペース。碁ももちろん好きだけど、それよりも碁中間と遊んでいるのが楽しい。碁の勉強は週に一度、仲間同士で誘い合ってリーグ戦を行うくらい。そのほかではインターネット対局をやはり週に一度くらいのもの。和気あいあい友達と碁を打っているうちに(「ひたすら実戦で強くなりました」と石井くん)、いつのまにか力をつけたタイプだ。「僕らは環境に恵まれているよね」と、石井くんは碁中間 の吉川一くん(広島)と二人でうなづきあっていたものだ。 冷静に対処 決勝を前に、山下くんと石井くんは「ここまできたら勝ちたい」と口をそろえていた。 握って先番となった石井くんは、「(中学生では)最後の大会ですし、決勝まで進んだら、なにか『やってやる』つもりでした」。初手5の五から意欲的な立ち上がりを見せてくれた。 だが、この奇襲作戦は、残念ながら結果には結びつかず、短手数での決着となった。敗れた石井くんは「準優勝でも満足です」という。 会心の内容で初優勝を遂げた山下くんは、笑顔を浮かべて「これまで少年少女大会ではよい成績を残せていなかったので、これで気分が晴れました」と笑顔を浮かべた。この優勝により、八月二十六日からのアマ本因坊戦の全国大会にも招待される。「楽しみですね。でも気が緩むスキがないなあ」とうれしい悲鳴だった。 | |
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| ◆粥川 ◆伊藤 ◆05年06月03日 19:47 | |
小学校一、二年の頃、隣に住んでいた沼本さんから粥川というところに遊びに行くので、ただちゃんも一緒にどうぞという誘いの声がかかかりました。 沼本さんというのは、戦後間もない頃、二軒ならんで立っていた同じ造作の借家に隣同士で住んでいたお宅で、おじさんはその町にひとつしかない、まだ旧制中学から新制高校になってまもない武儀高の英語の先生をしてみえました。その家の子供は、義郎さんという高校生と、安江さんという中学生の二人でしたが、僕とは年が違いすぎるため、一緒に 遊ぶようなことは一度もありませんでした。ただ、武儀高でひらかれた町民運動会で義郎さんが町内対抗リレーの代表として先頭を疾走する勇姿を遠くから眺めていたことを覚えています。 あるとき、沼本さんの家の風呂が故障したからといっておじさんがうちへ風呂を借りにみえた時、一回だけおじさんと一緒に風呂に入ったことがあります。そのとき、おじさんは英語を教えてやろうといって、スタンダップと言ったら立ちなさい、シットダウンと言ったら座りなさいと言いました。裸電球に照らされた薄暗い五右衛門風呂の洗い場で、おじさんが体を洗いながらスタンダップ、シットダウンと言うたびに風呂桶の僕は立ったり座ったりしました。 英語と言えば、その当時毎日夕方に放送されていた連続ラジオドラマ「鐘の鳴る丘」の主題歌「とんがり帽子」が、あるときから英語で歌われるようになりました。それを聞いた母親は早速隣の家へ行き、英語の歌詞をカタカナで書いてもらってきて家の壁に貼り付けました。僕は今でもその歌詞を断片的に覚えています。出だしの「緑の丘の赤い屋根」 は確か「ルック アット ザ レッド ルーフ オン ザ グリン ヒル」だったと思います。また、「めえめえ小山羊も」が「メエメエ リトル ゴウト」となっていたのを見て、動物の鳴き声は英語でも日本語と同じように言うのだなあと感心しました。 沼本さんの家には、おじさんの弟が住んでいましたが、その人は頭がおかしいため働かないで毎日家に閉じこもっているという話でした。ある朝、母親から何か用事を言いつけられて裏口から沼本さんの家へ行ってみたら、その弟さんは二畳ぐらいの離れみたいな小さな部屋で和服のまま火鉢にあたりながら新聞を読んでみえました。 ある日学校から帰ると、家には沼本のおばさんが母と二人でいました。弟さんが暴れだしたのでおばさんは僕の家に逃げてみえたということです。そこへ狂った弟さんが追いかけて来て、おばさんと母の顔をなぐってから外へ飛び出していったということを、おばさんは僕に半分泣きながら話されました。 粥川へ遊びに行く沼本さん一家から誘いをうけ、僕は母が出してくれたよそ行きの半ズボンに履き替えました。一緒に行くのは、沼本さんのおじさんとおばさんと安江さんの三人だけで、義郎さんは留守番とのことでした。僕は、安江さんというお姉さんが一緒だったので、なんだか心がうきうきしていました。 越美南線の美濃駅へいって汽車に乗りました。それは蒸気機関車の後ろにいろんな種類の貨車が何両かつながり、その後に二両か三両ほど客車がつながっている汽車で、野や川で遊ぶときに何度も見かける汽車と同じでしたが、乗るのは初めてでした。僕は窓際に座り、汽車が動き出すと夢中で外の景色を眺めました。 駅をでるとすぐに僕が魚とりをしたり土筆や蓬を摘んだりする川や土手にさしかかりましたが、それもあっというまに通り過ぎました。そして汽車は古城山と武儀高の間を進んだあとすぐにトンネルに入りました。 トンネルを抜けると、左手に大川が見えてきました。向こう岸は見覚えのある発電所です。それは中部電力立花発電所といって、遠足の時に学校から歩いて行ったところです。遠足のときは大きな鉄管が川の方へ斜めにくだっている水路の横で弁当を食べました。弁当のあと、先生に連れられて発電所の建物の中に入りました。発電所の人が電気を通すと 暗くて高いところで大きな火花が走るのを見ました。それはほんの数秒のことでしたが、皆とてもびっくりして暗闇に浮かび上がった太い火の棒を見上げていました。 立花発電所を過ぎ、幼稚園の遠足で行ったことのある洲原神社の森を過ぎると、そこから先はもう知らない土地でした。川幅はだんだん狭くなって山が迫ってきました。ある駅にとまったあと発車してしばらくすると、十人ぐらいの団体が橋をわたってゆくのが見えました。その中の二三人は、兵隊のような格好をしていました。うちの洋服ダンスにしま ってある国民服のような服を着て戦闘帽をかぶり、歩調をとって歩いていました。のぼりや旗を持ったひともいました。それはきっと兵隊に行っていた人が前の汽車で帰って来て、迎えに行っていた人たちと一緒にこれから村へ帰るところなのだと僕は思いました。 汽車はそれからいくつかの駅にとまった後、粥川という駅に着きました。僕たちはそこで降りて、川に沿ってあるきはじめました。その川は僕がいつも魚を捕まえいく、谷川と呼んでいるよりは少し大きい川でしたが、川の様子は谷川によく似ていました。 土橋をいくつかわたると川は山に沿って流れるようになりました。僕たちは山のほうからの谷水が川に合流しているあたりで少し休みました。僕は谷水の流れる岩陰ですぐに沢蟹を見つけて捕まえました。それを手に持ち、蟹を捕まえたといって見せに行ったら、安江姉さんはとてもびっくりして、どうやって捕まえたのかしきりにききました。 休憩をしたところからあたりをみまわすと、谷水を樋で引いて柄杓に落としている仕掛けが目にはいりました。水が一杯たまると柄杓はシーソーのように下へ傾いてたまった水が流れ落ち、柄杓が空になると今度は上に向かってもとの位置まで持ちあがり、そこに水が落ちてきてまた柄杓に水がたまる、という動きを繰り返していました。その柄杓の柄の もう一方の端は小屋の中に入っていて、外からはみえません。僕は安江姉さんと一緒に薄暗い小屋の中にはいってみました。小屋の中の土間には掘りごたつのような小さな木の桶がはめ込んであって、そこに白い米がはいっていました。 そして、柄杓と反対側の柄の端は杵になっていて、外で柄杓が上下に動くたびにこの杵が桶の中のお米をつくような仕掛けになっていました。 僕はこの仕掛けに感心してとても気に入りました。それから、うちでは麦ごはんしか食べないのに、ここでは麦のまざっていないお米が誰も見張っていない小屋に置いてあるなんて、本当に大丈夫だろうかと思いました。 休憩のあと、川幅が狭くなり大きな石が目立つようになってきた川に沿ってしばらく歩いていくと一軒の茶店が見えました。僕は今日行くところがどんなところかよくわかりませんでしたが、粥川のうなぎを見に行くということは知っていました。僕が谷川へいって捕まえてくるいろんな魚の中には、時々どじょうによく似た八目うなぎが混じっていまし たが、本物のうなぎはそれまで見たことがありませんでした。でも、うなぎの骨は食べたことがあります。それは、たれをつけてよく焼いたうなぎの骨を三個ぐらい割り箸にはさんだものです。どこかの店屋で売っていたそのうなぎの骨を、友達の吉田君のおばさんが買ってきて僕にくれたことがありました。僕はそのことを絵日記に書きました。割り箸に 挟まれているうなぎの骨を一本一本細かく書きました。そうしたら、先生から返された絵日記には赤い字で、おいしかったですか、と書いてありました。 川の中をのぞいても本物のうなぎは見えませんが、どうやらその茶店のあるところが今日めざしてきたところのようでした。おじさんは、茶店に入ってうなぎのえさを買ってきました。みんなで、川の岸の石の上に立って、水の上にえさを落としました。すると、どこからともなくうなぎが集まってきて、えさを食べ始めました。僕もえさをもらってうな ぎにやりました。うなぎはまるで水の底から際限なく湧いてくるような感じで、次から次へと頭を出しては水の中にもぐっていきました。うっかりすると、僕もその中へ吸い込まれそうな気がします。何匹いるのか数え切れないほどのうなぎが長い体をくねらせながら塊となって水のなかをぐるぐる回っていました。 僕の記憶はそこで途切れています。その後どうしたのか、どうやって家へ帰ったのか何一つ覚えていません。僕のその日はそこで終わりました。 | |
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| ◆中野坂上便り〜その二十二〜 ◆谷口 ◆05年03月18日 13:03 | |
| やっぱり日本酒がいい。 田舎の父はずっと地元の「竹の露」という二級酒を飲んでいた。小ぶりな電気燗つけ器があって、毎晩二合ほどそれで燗をして飲んでいた。四、五日で一升瓶を空けていたんだな。冷では飲まなかった。 冷たくして飲むということも、そういう酒もなかったように思う。というか子供だった自分には酒は「竹の露」しか知らなかったし、祭りのときの振舞い酒以外は酒は燗で飲むものだと思っていた。 田舎の小さな祭りだった。入れ替わり立ち替わり茶碗酒を一気に飲んで、また神輿を担いでいく大人たちを、その茶碗にまた一升瓶からどぶどぶと酒を注ぐおばさんたちを、いつもとは違う祭りのときの火照った光景をよく覚えている。あれは冷でないとね。そういえば神様と関係する酒はみんな冷だね。 落語にあったな。 美女に誘われてその家に行く。酒の仕度をしてくれる。「燗にしますか。それとも冷で」と声がかかる。「燗で」と答える。うきうきと待っている。と、目が覚める。夢の中の出来事。そして一言「あの時、冷で飲めばよかった」という落ち。 古今日本では、酒といえば日本酒なのだ。 しかし、日本酒は健康によくないなんていう人がいる。焼酎、ウイスキーのように蒸留してあるものがいいと言う。医者も多くがそっちをすすめる。 アメリカから来た新興宗教「健康教」が日本を席巻している。肥満は社会の敵の如くで、会社でも学校でも隔離されそうだし、健康補助食品は、農産物、魚産物を押しのけますます元気だし、健康の二文字が入らない物はヒットしないし、健康になるために病院はますます混雑を極めるし、今に「健康のためなら命を捧げます」なんて人も出てきそう。現にどうみても健康によくないから「やめなさい!」と声を掛けたくなるようなジョギングマンもいる。倒れそうなのだ。無理をしているのが見える。何が彼を走らせているのか。「健康」に取り付かれたとしか見えない。「健康のためなら命捧げます」の部類だ。 「肉体の健康」を神と同等にまでたかめたアメリカは、ほんとうにいつも余計なお世話ばかりしてくれる国家だ。まわりまわって日本酒まで飲むな、よくないという。いい加減にしてくれ。 不健康はよくないけれど、多少の疾病とは仲良く同居するものだ。回虫が体内からいなくなったから花粉症で苦しむ。潔癖な健康ははたして健康なのか。酒飲みの自己弁護か。 白玉の歯にしみとほる秋の夜は酒はしづかに飲むべかりけり 若山牧水 まあ季節は違うけれどこうありたいし、これがビールやワインやウイスキーじゃお話にならない。 最近は全国の日本酒がデパート地下の酒屋に並んでいる。ラベルを眺めているだけでも楽しいけれど、ちょっと高価になりすぎた気がする。 感覚的に言うと、酒、一升、三千円。かな。これ以上のものは、ちょっとやり過ぎですよと言いたい。あては今の時期、はたはたの一夜干しが一番。 中野坂上に春の雨はあがって、そろそろ赤提灯に灯がともる頃。 酒はしづかに飲むべかりけりといきたいね。 | |
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| ◆中野坂上便り〜その二十一 ◆谷口 一 ◆05年02月18日 13:40 | |
| 「だから言わんこっちゃない」そんな声が聞こえてくるし、そんな顔もされる。 その瞬間に「バキッ」と右手首の骨が折れたと分かった。「ウッ!」と唸ったまま気が遠くなっていくように感じた。どのくらいの時間、倒れたまま腕を抱えていたのか。長い時間のようだったけれど、たぶん一分か二分だと思う。ただ痛い。大きめの手袋はうまい具合にスポットぬけた。右手首の甲の方の人指し指の付け根、ちょうど手首が曲がるより少し上あたりが見る見る内に腫れ上がっていく。倒れたまま動く左手で、雪を集めて右手首を雪に埋めた。このままの状態でいると、ゲレンデの救急隊がピーポーピーポーとけたたましくスノーバイクでやってくるのは見えている。それだけは避けたい。みっともないおじさんは嫌だ。とにかく上半身が起き上がれば。左手の肱で起き上がっていく。こう座っていれば休んでいるように見えるだろう。腫れが止まる。大きめの手袋をまたはめ直して、患部には、ポケットにあった軍手を雪の中に埋めて冷たくしたものを当てる。上着のポケットが上手い具合に胸のあたりで縦に切れている。そこに右手を押し込む。これで固定が出来た。転んでから十五分はたった。痛みはそのままだけれど落ち着いてきた。両足はバインディングに固定されたままボードに付いている。外れなかったのだ。これは幸いだった。この手で外れたバインディングを締め直すのは不可能だし、歩いてずっと下のゲレンデの医務室に向かうのも気が遠くなるような距離だった。 あと五分休んだら、ゆっくりと膝から立ち上がって、そろりそろりエッジを利かせて滑り降りていけばいい。この腕でもう一度転ぶわけにはいかない。今度は本当に気を失うだろう。まだまだスカスカの骨ではないようだ。ポキンとは折れていないようだ。頭の中に理科室にあった骨格標本が浮かんでは消える。冷汗が出ているんだろう、それが冷気で冷やさせて顔面が痛いほど冷たい。まだ蒼白だろうな。左手で毛糸の帽子を深くかぶる。 スノーボードは面白い。チョー!はまってしまったのだ。 スキー場にスキーヤーの姿がまばらになり、スノーボーダーが溢れる。世の流れ。 裏山の竹を曲げてスキーもどきを作り、すべっていた頃から四十五年、ゲレンデスキー、山スキーと久しんできた身には「何のスノーボード」とずっと思ってきたけれど、ストンと宗旨替え。 スノーボードは気持ちいいのだ。何故だ? 北から来たスキー、南から来たスノーボード。 スキーは手足の延長である二本の杖と二枚の板を駆使し、あくまでも雪を雪原を征服するために発展してきたように思う。 かたやスノーボードはサーフィン、波乗りの延長。一枚板の上に乗り巧みに体重を移動させ、波と同化する。その雪上版。征服ではなく自然との同化協調共生。時代はスノーボードなのだ。 あれから二週間。スノーボードまだ出来ない、スキーまだ出来ない、登山もまだ無理。雪山を目の前にして何をすればいいのか。週末の楽しみは・・・雪の楽しみ。記憶をたどって、三十年前に求めた「かんじき」に行き着いた。雪上散歩。今、流行りのスノーシュー(西洋かんじき)ではない「和かんじき」である。映画「またぎ」で西村晃さんが履いていた(と思う)。 これがフイットするのだ。雪深い落葉松の林。時々ケモノの足跡。彷徨う。スキットルにチェリーブランデーを入れて。当分はこれで楽しめそう。いい磁石が欲しくなる。 | |
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| ◆擬古集 ◆コスミ ◆05年02月07日 14:55 | |
| 口上 かのかくれなきうたびと高橋睦郎うし、いにしへのやまとのうたの姿をまねび、「祝詞」「神楽歌」「催馬楽」「今様」「隆達」なんどめでたくうたひいだせり。なづけて「倣古抄」といふ。 さてここに「尖」(コスミ)なる痴れ人、つれづれなるままにさらにかれをなぞり、たちまちに数篇をなせり。いとつたなきままに消閑の一興とせむとはする。あへて「擬古集」ととなふ。 けだし、「ギコギコ」とは老いたる腰のいたみの謂ひなるべし。あら笑止や。 長歌「黄瀬川讃」 并反歌 吾(あ)が立てる この断崖(きりぎし)は うちえする 駿河の国の ひむかしの 果てにしあれば 見はるかす かの山なみは たまくしげ 箱根の山と つらなるは みなみの彼方 あもりつく 天城の嶺ぞ かきかぞふ 三島のさとと まなかひに へだて流れる こひごろも 黄瀬の川瀬は あしたには 川霧ふかく さひづるや 小綬鶏(からかけどり)の 「ちょっと来」と妻呼ばふ声 岸辺に さわき響(とよ)もす 夕べには 小鴨は集ひ ぬばたまの 黒き川鵜は 巖に立ち うろくづねらふ 久方の 秋空は澄み 高光る 雲のはたてに 真白にぞ 富士が嶺たてり 三十年(みそとせ)を ほとりに住みて 朝に日(け)に 見れども飽かぬ はしけやし 黄瀬の流れは あかあかと天城の空の明けゆけば 黄瀬の川瀬に黄金なみたつ 愛鷹のはだらの雪の消えがてに 身にしむ風は川くだるなり 狂言「碁大名」 (太郎冠者)これはこのあたりに住まひいたす者でござる。今宵はまことに良い月夜じゃによって、市道(いちみち)に浮かれでやうかと存ずる。かやうな月の宵は見目よいおなごも門口に罷り出でやうず。 まづはそろりと参らう。ヤこれは如何(いか)なこと、頼うだお方があのように縁先に碁盤を引き出してゐらるる。盤のそばには酒のふくべまで置かれているは。近頃なにかといふと「太郎冠者相手をいたせ」と申される。またヘボ碁のお相手はかなわぬが、気づかれずそばを抜けることもできまい、ハテ如何したものぞ・・・ヤ、よいことにここな透垣(すいがき)の破れ穴がある。この穴から抜け出ようと存ずる。ではそろそろと参らう・・・ザリ、ザリ、ザリザリ。 (大名)ハテ、あの垣根のあたりからザリ、ザリザリと音が聞こゆる。狸かいたちかと思うたらこれは何としたこと、太郎冠者ではないか。丁度よいところじゃ、ここへ参らせやうぞ。 「コリャヤイ、太郎冠者なんとしてそこにおりゃる。こちらまで参れ」「南無三これはしたり、見つかったか」「早う参れ」「ただいま参りまする」「ここへ来やれ」「お前に」「何ゆえにあのような垣のこぼちから抜け出ようといたいたぞ」「されば今宵はよい月夜じゃによって、市道に浮かれ出でようかと存じました」「なに、月夜に浮かれてか。らちもない、そのようなことをせずともここにて一番碁の相手をつかまつれ」「今宵はご勘弁を」「イヤ勘弁ならぬ、チャとすわって石を取れ」「是非もない。それではお相手つかまつりまする。私が白の碁笥を引きまする」「なんと白石を取る奴があるか、こちによこせ」「手前がいつも勝ちまするによって白石をとりました」「なれど身どもは汝の主(しゅう)なるぞ。碁は礼に始まり礼に終わると聞く。主に白を譲るは礼のはじめなり」「エエ、らちもないことをおしゃる、では白石をとられませ」「さればまずこのように九つの星に石を置く」「待たれませい。白が石をおくといふことはありませぬ」「なに、白石を置くことはないといふか。されば聞かせやう。いにしへ (謡う)『鵲(かささぎ)のわたせる階(はし)に置く霜の・・・』 といふ歌がある。じゃによってこれは白い鵲の橋じゃ」「これは異なことを仰せらるる。なれど主とあればせんないことかな・・・さればこのあたりから参ろうと存ずる、ビシ」「まづはこの橋をつないでおこう、バシ」・・・ビシ、バシ、ビシ、バシ・・・ 「だいぶ手数もすすみたれば、この白石を切り取っておかう、ビシ」「ヤヤッそれは気がつかなんだ。しばし待たれい」「いやなりませぬ」「なんとならぬとな。主の命(めい)じゃ」「これは碁盤の上のことでござる。」「碁盤の上のことであっても主の命じゃ」「さてさてまたも御無体なことを。それでは今宵は私から約定を願いあげまする」「なに約定とな、申してみよ」「その約定とは『待った』ひとつにつき、そこなふくべの酒を一盞(いっさん)所望いたしまする」「なに酒をのませよとな」「なかなか」「ウウムあの酒は播磨の舅(しゅうと)殿より戴いた大事な酒じゃによって、やるわけには参らぬ」「さやうおしゃるならばこの一目戻すわけにはゆきませぬ」「エエイせんもない。欲しくば勝手に取られい」「では遠慮なう頂戴いたしまする・・・グビ、グビ、・・なるほどこれは良い酒じゃ。今宵の月に一段とうまうござる」「エエやくたいもない、杯を置いて早く打たれい」「心得ました。ではこの白地の中へ、ビシ」「なんとわが陣のなかへズカリと打ち込むとは無礼なやつじゃ、討ち取ってくれやう、バシ」「次にここへ伸びまする」「ヤ、目がなうなった。待たれい」「ハハまたでました、それでは待ちますによってもう一盞頂戴いたしましょう。グビ、グビ。・・・なんぞ肴など欲しゅうござる」「肴なぞないは」「ではこの隅の三目を肴といたしましょう」「まっこと癪なやつかな」 ・・・・・・・ 「何かと申すうち、そろそろ一局も終わりとなりました。こうやって見渡しましたところ黒地がだいぶ多いとみうけまする」「なに、黒地が多いとな、ウウム口惜しやまた負けたか。エエイ酒(ささ)でものまう。ヤヤ、ふくべには一滴(しずく)もないぞ、汝がみな食べたか」「いや気がつきませなんだ。許されませい」「許すものか」「ゆるされませい、ゆるされませい」「やるまいぞ、やるまいぞ」「ゆるされませい、ゆるされませい」「やるまいぞ、やるまいぞ、やるまいぞ」 今様 ○ なゐふる国に生まれじや おほ波こそはのがれまじ ほとけのみよの過ぎてのち ひとのなさけのうれしきは ○ この世に さい(財)は積むとも 座して喰らふて 消えはてむ かうべに さえ(才)あれば すゑの代までも たのみなるらむ ○ 老いたるのちの楽しみは 温泉 からおけ 愛敬(あいぎょう)孫の相手とか 夜長ともなれば 碁うちにまさるものなけれ 小歌(閑吟) ○ 虫になりたやなう かげらふに 夕べにむまれて あしたの風に消ゆとかや ○ ほろろと さけはのままし ひとり のままし しみじみと さけをのままし ふたり のままし ○ 浅き夜に あさき夢みし なほさらに あさきこの世に みじか夜に みじか夢みき おもかげは なをものこれど ○ くるくると はとがなくぞい 日もくるる わがみもくるる | |
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| ◆老子は悟りの世界の住人だった ◆すばる ◆05年01月16日 07:26 | |
| 論語は孔子先生の日常の教えを記録したもの、現実の会話の集成である。一方、 老子は抽象語が多く、孔子より後世の書生達による現実逃避の抽象論にすぎない ....と考えていましたが、これが全くの誤解だったと分かりました。 きっかけは『私の宗教的体験』というホームページを出されている方が、その基 となる本に『単純な生活』という名前を付けて、老子の教えに近づく形での老後の 日々を実践されている事を知ったところにあります。 これほどの人が老子を尊重する以上、老子=抽象論+法家+孫子 ではないのかも と思いはじめました そして、中塚善次郎先生の老子解説を読んで、老子全編がすべて悟り体験の告白で あることを知り、はじめて納得がいきました。 老子の第一章は格調高い深遠な文で始まっているというのに、後半では権謀術策の ような駆け引きを推奨するなんて、なんか変だなぁ、と思っていたのですが、その 駆け引き推奨のように思われた部分までが、悟り体験から出て来る見識であることに 納得がいきました。 中塚先生は、悟り体験の四聖として、釈迦、老子、ソクラテス、キリストを挙げ られております。 加島祥造先生の『伊那谷の老子』という本がありますが、老子の各章が、漢字読み 下し文ではなく口語自由詩として、悟り体験の心境詩が並びます。発想の基となった のは、欧米ではここ百年間の間に、老子がさまざまに解釈されて出版されており、 そのいづれもが、悟りの境地を述べる自由詩のスタイルをとっているとのことでした。 一方、漢文世界の碩学である志賀一朗先生の『老子の新解釈』は、老子の各章が 三段論法のもうひとつ前の三段的論法によって展開されていることを発見して、それ により、論旨・文意が納得できるようになった....と喜んでおられますが、老子全編 が抽象的哲学ではあっても、悟り体験とは考えられていない。 ここにも、専門家が置いていかれ、欧米の素人連や、日本の門外漢達が、老子の 真実にはいっていけたという、逆転の構図があり、驚いているところです。 【追記】無為にして為さざるなし....という名句がありますが、無為を推奨する 老子がなぜ有為のかたまりである農業をやるのか?それは矛盾ではない か、と不快な気持ちでいたのですが、これも誤解でした。 無 = 自然の調和循環のいのちの流れ 為 = 自然の流れ、いのちの流れを妨害するような人為的施策 宇宙といのちの自然な流れに包まれて、それに身を委ねて柔軟に生きて いくことこそが、おのずといろんな知恵が湧き出て、幸福な日々を形成 していける....という教えでした。 | |
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| ◆中野坂上便り 〜 その二十 〜 ◆谷口 一 ◆04年12月27日 16:38 | |
| 蓼科の山にやっと雪がきた。 12月26日朝6時、氷点下5度の空気の中に塵のような粉雪が舞って、地表は霜で所々白かったが雪はなかった。7時半を過ぎその塵雪がやや大きな粒になって強い風に舞っていた。八子が峰の稜線に雲が流れ覆われ、スキー場の降雪機のモーターの音が遠くなった瞬間。本格的な雪が来た。見る見るうちに5cm、10cmと積もっていく。 この雪は根雪となって、ここら辺りに遅い春がやってくる4月の末までは融けないだろう。 白樺湖の湖面も凍って、その上に降り積もった雪で白一色。来月末には、氷上でのわかさぎ釣りのシーズンが始まる。 小屋から湖畔の酒屋まで歩いて10分。降り続く雪の中を長靴履きに毛糸の帽子、羽毛のベンチコートという完全装備で出てきた。もう15cmは積もっている。初積雪祝いのビールを求めて、新雪に靴あとをつけていく。振り返ると白樺の林の雪道に思いのほか大きな靴あとが、深くついている。夜の雪だったら、ケモノの足あとを探せたのに。まあそれは次週以降に取っておこう。雪が積もってくれたことに今朝は感謝しよう。ずっと心待ちにしていたんだから。買い求めた缶ビールの袋をポケットの手からぶら下げて、来た道を登っていく。ほんの5分後の復路に、横なぐりの雪は靴あとをもう半分ほど埋めている。1時間もたてば靴あとはすべて埋まり、深い新雪に覆われ、一人の男が歩いた記録を消し去ってしまうだろう。 24時間稼動のスキー場の降雪機の奮闘には感心するものの、出来る雪はわずかなもので、ブオ〜ンブオ〜ンというモーター音が夜中、風の中に時折むなしく聞こえていた。 しかしこの自然の力は、見渡す限りの山を林をあっという間に白銀の世界に変えてしまう。冬枯れた荒涼たる白樺と落葉松の林を白一色、厳冬に染め上げてくれた。 裏の丸太に腰掛けて、降り続く雪に冬に乾杯だ。ここではビールを買い置きしておけない。屋内でも留守にしている間に凍って破裂してしまうから。冷蔵庫があれば中に入れて温めておくのだけれど、真夏でも必要ないからそれもない。買った分は全部飲む。 冬が春を作るから、冬はしっかりと冬でなくてはならない。いいかげんな冬だといいかげんな春が来て、またいいかげんな夏が来る。 今はしっかりとした冬だ。きっぱりとした気温だ。もう昼間でも0度より上がることはないだろう。ずっと融けなかった霜柱は雪の重みで形を変えたとしても、春まで雪の下にあるのだろう。 夢に見る。裏の林の雪の上に無数のケモノ達の足あとがあり、その中にいつかの夜に見た、角の驚くほどりっぱな大鹿のものがあり、カンジキを履いた自分がそのあとを追っていく。沢を尾根を追っていく。シートンが教えてくれた。足あとを完全に追っていけば、 100%その個体に会うことが出来ると。 雪が降ったことで山の小屋の生活にまた楽しみが増えた。でも今週の山の生活もあと数時間、午後には車の屋根に雪をのせて東京に向かっているだろう。 戻ったら、山道具屋でカンジキ留めの細引きを新調しよう。 | |
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| ◆第2次MLB(メジャーリーグベースボール)観戦の旅−その3 ◆野口法之 ◆04年12月22日 16:27 | |
| (6)ニューヨークとグラウンドゼロ 翌11日は移動日。シカゴで乗り継いでニューヨークまで、時差を含めた時刻ベースで11 時間弱の空の旅です。 ホテルにて、こちらでお世話になるUの友人のS.K氏にお目にかかりました。同氏は当 地の銀行に勤務され、観劇等のエンターテインメントに造詣が深く、この関係のチケット を手配してくださいました。さらに同氏はローラースケートを趣味とされ、ニューヨーク 市で行われる大会の常連であるとか。この日もスケートシューズを手にしておられました。 市内でローラースケートを気軽に楽しむことができるそうで、ニューヨークの別の一面を 見たような気もします。 明けて12日(土)、徒歩と地下鉄で市内観光の途次、グラウンド・ゼロに立ち寄りました。 事件から時間も経っており、見学者も程々といった感じ。地下鉄の一駅は臨時閉鎖された ままですが、路線も周囲も元と変わりません。柵に囲われた未整地の跡地だけが事件を語 ります。 道路を隔てて向かい側にあるセントポールズ教会も訪ねてみました。こんなに近くにある のに健全に残っているのも不思議な気がします。テロ後は救助復旧に携わった人たちの作 業支援のために施設が提供されたとのことでしたが、当時を語る品々が残っています。 感想は差し控えましょう。 (7) パドレス対ヤンキース 本日のMLB観戦は、ヤンキースタジアムにてサンディエゴ・パドレス対ニューヨーク・ ヤンキースの薄暮ゲームです。 ここで私の大失敗。テロ以来、野球場の警備が厳しくなり、一定容積以上のバッグは透明 でなければいけないことになっています。承知はしていたのですが、所持品の関係で通常 のバッグを持参したため、交換所にてポリエチレンの袋に詰め替えて$5を支払う羽目に なってしまいました。今後観戦される方はご注意あれ。 さて、試合は13安打で累上を賑わせたパドレスが非効率な攻撃を繰り返し、少ないチャ ンスをものにしたヤンキースに3対2で敗れました。翌日の日曜日のナイターは派手な展 開で、松井秀樹も大活躍でしたが、今日の試合は地味、松井も活躍の場をつかめませんで した。 ニューヨークの治安は、旅行者が普通に行動している分には不安はありませんが、ヤンキ ースタジアム周辺は過去にはかなり問題があったとの話も聞いておりましたので、私の観 戦選択は日のあるうちに帰れる薄暮ゲームにしたわけですが、結果論ながら翌日ならばも っと面白いゲームを見るチャンスのあったのに、惜しいことをしました。 (8)観劇・美術館など文化活動も 今回、ニューヨークには正味4日間滞在しました。MLBを2試合、そしてエンターテイ メントについては前記S.K氏が、最高水準のイベントを選んでチケットを確保してくだ さいました。 (a) ニュー・アムステルダム劇場におけるミュージカル“42nd Street" “42nd Street"はこのあと、日本公演があるとか。この分野のことに私は詳しくあ りませんので、論評はパス。 (b) メトロポリタン・オペラ・ハウスにおけるアメリカン・バレー・シアタによる"SWAN LAKE" (c) ジャズライブハウス (d) 美術館 アートでは創立者の邸宅をそのまま美術館にした「フリックコレクション」にて、独特の 鑑識眼で収集されたという美術品を鑑賞。 また「ジューイッシュミュージアム」でモジリアニ展を見ました。 K「世界中から数百点の作品を集めるには莫大な金がかかるはず。それが10ドル程度の 入場料で見られる。日本では考えられないね。さすがNYだ。」 とKは感服しきりでした。日本の美術館からも2点出品されていました。 Kが関心を示していた美術館がもう一つあります。マンハッタンの北端にあるクロイスタ ーズ美術館。地図で見ると午前中に出れば午後の野球の開始までに間に合いそうな距離に 見えますが、そこがアメリカの広さか、「交通機関が不便なので、時間の制約があるので は勧められない。」とフロント。これまでニューヨーク滞在のたびに見学の機を狙ってい たKでしたが、今回もお預けになってしまいました。 「日本棋院ニューヨーク碁センター」にも立ち寄りました。こちらはシアトルとは違って、 1、2番街の中間の52ストリート沿いにあり、分かりやすい。日本から期間派遣の指導者 が滞在しており、すこしお話が伺えました。 このセンターのお客さんは、比較的裕福な家庭の子弟が多いとのこと。訪問したときも、 ちょうどフィリピンからニューヨークに駐在中のビジネスマンの若い奥方と子供二人がお 客として来ておりました。 二人の女の子はおそらく学齢前、それでも「アタリ」ぐらいは分かるらしく、二人で石を 捕りあって遊んでいました。 お母さんのほうは指導碁ですが、棋力は井目以下。この日は黒が井目を布いて、「黒の石 が1個所でも生きたら黒の勝」というルールで指導をしていました。途中まで見ていまし たが、黒はなかなか生きそうもない状況。ちょっとユニークな指導法ですが、海外の場合、 棋力が違いすぎるときに下手の興味をつなぎ止める方法として、こんなのもありかな、と 思いながら辞去しました。 もうひとつ、Kの学生時代の友人のS.S.氏ご夫妻が当地に永住しておりますので、お住 まいに寄せていただき、ご夫妻からニューヨーク生活のあれこれを聞かせていただきまし た。場所はリンカーンセンターの近く、日本式に言えば高層マンションの高階部分で、居 住空間も展望も申し分ないお住まいです。ワールドトレードセンターも真正面に見えてい た由。その節はありがとうございました。 | |
| 04-0035 | |
| ◆おじいさんの話 ◆コスミ ◆04年12月20日 21:08 | |
| 今年ももう十二月か。この月になるといつも思い出すことがあるんだ。今日はその話をしてみようか。 わしがまだ小さかった頃、そうそれは昭和19年(1944)の12月7日のことだった。 わしはまだ11歳で小学5年生だった。もっともその頃は小学校とはいわず「国民学校」といっていたがね。 その日わしらのクラスは午前の勉強時間を終えて、お弁当を食べたあとは午後から「茶の実ひろい」に出かけることになっていた。そのころは日本は戦争の真っ最中で、物資は何もかも乏しく身のまわりはもとより、戦争に必要な資源にも事欠いていた。それで石油のかわりになるもの、茶の実や掘り起こした松の根から油をしぼるため、それらを集めて国民が一生懸命供出したもんだ。 そんなわけでわしらクラスの数十人は、担任の先生に連れられて学校から2,30分ある山のほとりまで歩いていった。 めいめい母さんのつくってくれた布の袋を持ってたんぼの中をとおり、それはそれで遠足のようで結構楽しいものだったよ。 わしの生まれた町は全国でも有数のお茶の産地で、あちらこちらの畑や山の斜面などには茶畑がいっぱいあった。山と言ってもせいぜい数十メートルの小高い丘のようなもので、その丘の茶畑に生徒たちは広がっててんでに競争で茶の実ひろいをはじめた。 お茶の実って見たことあるかい。親指の爪くらいの大きさで茶色につやつや光っているのさ。低い茶の木の下を這うようにしてのぞくと、そのつぶつぶが敷きわらのあいだにころころところがっている、運がいいと一カ所に十粒も二十粒もかたまっているんだ。それを布袋に入れ時々友達とその量を見せ合ったりした。 しかし子供たちはすぐにあきてしまう。小一時間もすると男の子どもは茶の実ひろいなんかほっぽり出してお互いに遊びまわっている。わしも2,3人の友達と一緒に山の斜面につきだしたこぶのようなところにまたがって、下に広がるたんぼや遠い町並みなどを眺め回していた。 その時だった。なにか地面の底からわき出すような低いうなり、貨物列車が遠くから向かってくるような轟音が聞こえてきた。すると自分のまたがっている土のこぶが左右にゆらゆらとゆれだした。なんだか馬の背にまたがって揺られているようでちょっと気分が悪くなった。最初は何がなんだかわからなかった。目の前にあった小さなため池の水が、かなだらいを揺すったときのようにチャプチャプと揺れ、たんぼのあぜ道がクネクネと踊っていたのは覚えている。山の木々が風もないのに一斉にザワザワとさわいでいた。 そのうち50メートルくらい先の、たんぼの中に立っていた農家(ただの納屋で人は住んでいなかったようだ)が左右にゆさゆさとからだを揺すると、ぐしゃりとつぶれてしまった。「ドサ」とか「グシャ」とか音がしたんだろうが、いまでも思い出すその光景は、まるで無声映画のようにゆっくりと沈んでゆく屋根の姿だけだ。その時ようやく地震だと気がついたのだ。 先生はすぐに子供たちを集めると学校へ引き返した。帰ると校舎の一棟が完全にペチャンコになっていた。幸いその時生徒も先生も入っていなかったそうだ、 家に帰る途中の家並みは外見からはそれほどひどく見えなかったが、傾いている家もだいぶあり、そのうちの一軒は30度くらい傾いて電信柱に寄りかかり、ようやく倒れるのをがまんしていた。 また町のおおきな医者さんの石壁がぜんぶ崩れ、町通りいっぱいにちらばっていた。なんでもその時どこかのおばさんが歩いていて大けがをしたという話だった。 うちに帰ってみるとどうやら我が家はたっていた。家族もみんな無事だった。家の中ではタンスなどが倒れたかもしれないがよく覚えていない。でもこの地震で我が家はすこし傾いてしまった。それからというものは、どの戸を閉めても上か下か柱との間に2,3センチの三角の隙間ができるようになってしまった。うちは貧乏で直すお金もなかったのでずっとそのままになっていたが、そのうち子供のわしらは家とはそんなものかと慣れてしまったよ。 それからも余震はたびたび起きた。いまの基準でいえば震度4や5の揺れはしょっちゅうだった。まえにも話したようにその頃はアメリカなどと戦争の真っ最中、いやもう終わり頃といったほうがいい。とても日本は勝ち目はなかったのだが、一般の国民はそんなことはわからない。わしら学校の生徒たちは最後に必ず勝つお信じていたし、先生もそう教えていたもんだ。 でも現実の生活はどんどん苦しくなる。それに毎日のように空襲警報、こんな田舎の町にも上空を敵機がブンブン飛んでくる。もっとも実際の攻撃こそほとんどなかったけど、空襲警報になると学校の授業はただちに打ち切り、こどもたちは防空帽というザブトンを折ったようなものをかぶり、急いでうちに帰される。実はわしらはそれが嬉しかったがね。 そんなときでも地震は一週間に一回以上やってくる。子供たちはわりと平気だったけれど親たちは気の休まる時がなかったじゃないかと思う。あるときはズック靴をはいたままふとんにもぐった楽しいこともあったっけ。 大晦日の晩もお正月になっても余震はおかまいなくつづいた。わしの兄弟は多かったのでお正月には家族みんなでカルタ取り(百人一首)をするのが毎年のたのしみだった。 正月二日の夜、座敷でみんなでカルタ取り、読み手はいつもおとうちゃん。障子や窓には黒いカーテン,電灯も今みたいにあかるくない。それは町の明かりがもれて敵機の目標にされないためだ。そこへまた地震が起こった。たぶん震度4くらいだっただろう。みんなあわてて裸足のまま外へとびだした。姉さんは気がつくと取ったカルタの束をしっかりとにぎりしめていた。 そんないろんなことがあったのだよ。 あとで知ったことだが、その地震は「東南海地震」とよばれて歴史に残る大きな地震で、東海地方から紀伊半島にかけて津波やおおきな被害を出し、死者も千二百人以上も出たそうだ。 しかし当時の新聞もラジオもあまり報道はしなかった。(テレビはまだなかったしね)それは戦争中ということで、国内の災害を騒ぎたてると敵国の有利になるとか国民が不安になるとか、時の政府はそう考えたためといわれている。翌年の八月には戦争は負けてしまったけどもね。 こないだの新潟の地震もひどかったね。みんな元気にお正月を迎えられればいいんだが。 | |
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| ◆第2次MLB(メジャーリーグベースボール)観戦の旅−その2 ◆野口法之 ◆04年11月18日 16:21 | |
| (3) 日程計画 かくてでき上がった日程は、以下のとおり。 6月 9日 夕刻成田発 当日朝シアトル着。市内観光後、セイフコフィールドにて シアトルマリナーズ対ヒューストンアストロズ観戦 10日 シアトル周辺観光 11日 シカゴ乗り継ぎでニューヨークへ 12日 ヤンキースタヂアムにてニューヨークヤンキース対サンディエゴパドレス観戦 13日 ニューヨーク観光 14日 ニューヨーク観光 15日 シェイスタヂアムにてニューヨークメッツ対クリーブランドインデアンズ観戦 16日 シカゴ乗り継ぎにてサンディエゴへ。午後、サンディエゴ観光 17日 ペトコパークにてサンディエゴパドレス対タンパベイデビルレイズ観戦 18日 サンディエゴ観光後、アムトラックでロスアンゼルスへ。 19日 ドジャースタヂアムにてロスアンゼルスドジャース対NYヤンキース観戦 21日 ロスアンゼルスより帰国。 野球日程の関係で、西海岸を2回に分けざるを得なかったのはやや非効率でした。航空会 社はハブ空港の関係からUA、航空券は、こういう日程にはおあつらえ向きの「格安航空 券の4都市ゾーン制」を利用しましたので、運賃は米国西海岸までの往復料金のみで米国 内の料金はかかりません。サンディエゴ・ロアンゼルス間はその権利を放棄してアムトラ ックを楽しみますから、その分は別途持ち出しです。 (4)シアトル市内観光後、MLB観戦へ シアトルには6月9日(水)の午前中に到着します。ホテルに荷物を預け、パイクプレース マーケット、ウエストレークセンターなどを観光、そのあと、シアトルセンターにある展 望台スペースニードルへモノレールで行く予定でしたが、事故で運休のため、歩いてしま いました。 スペースニードルでシアトル全景と食事を楽しみ、一度、ホテルへ戻って休憩したあと、 再び徒歩で約40分、パイオニアスクエアを横目で見ながら、本日のMLB観戦スタジア ム、セイフコフィールドへと向かいました。 さて、今日のカードはシアトル・マリナーズがヒューストン・アストロズを迎えてのイン ターリーグ3連戦の最終戦。今年のマリナーズは、昨年から戦力がさほど落ちたとも思え ないのに、アメリカンリーグ西地区で断トツ最下位に沈んでいます。客足もその分落ち、 私たちの観戦ゲームの中では最高の席を確保することができました。 初回、マリナーズはイチローのヒットを皮切りに二死満塁まで詰め寄りますが無為。エー スのガルシアを立てながら3回に集中打を浴びて3点を献上。その後アストロズの4投手 の継投に完封され、マリナーズの3対0の完敗でした。マリナーズは前日も完封負けで、 21回連続のゼロ行進が続いているのだそうです。 このゲームで、幻のホームランが2本ありました。翌日の新聞によると、“A homerun robbing play" と出ておりました。一つはマリナーズの中堅手ランディ・ウインが、も う一つは三塁塁審デール・スコットがホームランを”奪った“、とあります。 前者は、スタンドインしそうな打球を中堅手がフェンス越しにキャッチしたファインプレ イで、ままあることですが、後者はちょっとめずらしいケースです。7回裏、3対0とリ ードされたマリナーズの攻撃で、走者を一塁に置いてオーリリアがレフト線にフライを上 げます。三塁塁審はベースを蹴ってボールの行方の確認に走り、僅かにポールを掠めたホ ームランと判定します。直ちにアストロズの三選手が抗議、 塁審のスコットは他の三審判と協議し、判定を覆えします。当然ながらマリナーズのメル ビン監督は猛然と抗議。その結果今期3度目の退場処分です。 おもしろいのは当のオーリリアの反応。「そのこと自体には問題ないさ。問題があるとす れば、350フィートも離れていた俺にも分かることが、100フィートのところにいた奴 (審判)に分からなかったことだろうよ。」打った本人は、ファウルであることが分かっ ていた、というわけです。 (小稿を「天地」で読んだ読者から、「このゲームをテレビで見ていたが、誤審がリプレ イでよく分かった。」とのコメントをいただきました。いくら良い席に座っても、観客席 からは微妙なところは分かりません。テレビの効用ですね。) そして、そのオーリリアは7月、パドレスへトレードされてしまいました。同じころ、元 首位打者のオルウッドも後進に道を譲るべく引退を余儀なくされています。もっともオル ウッドは間もなくヤンキースに拾われ、先発出場していますが、ヤンキースの一塁手は多 士済々ですから、その地位を守るのはベテランにとって容易でないでしょう。私たちもシ ニアの一員として、彼のがんばりを応援したいものです。(その後彼は、体調不全の巨砲 ジオンビー、他チームに行けばレギュラーの勤まるトニー・クラークを押しのけて、先発 出場を勝ち取っています) それにしても私たちの帰国後もマリナーズの極端な不振は続いています。ベテランから若 手への切り替えに失敗したのが原因ということで、ようやく手が打たれている状況ですが、 日本のファンとしてみれば、イチローの活躍が実るためにも、来期に向けてチームの構造 改革に期待したいところです。 さて、Uの友人のS氏がスタンドに来てくださり、Kと私は初対面の挨拶。野球談義をし ながらの観戦となりました。S氏もMLBに詳しく、最近の現地のテレビで話題になった こととして、「最近、イチローの守備でいいプレーが少なくなった」とのファンの声に、 コメンテータが「相手チームが彼の肩を警戒して走者を自重させているためだ」と答えた ということなど、いろいろな話を紹介してくれました。 (5) シアトル郊外の観光 Uの友人のS氏は航空機メーカーに勤務し、ここ数年、当地のボーイング社に出向してお られる技術者です。今日、6月10日は私たちのために休暇を取って、シアトル周辺を案内 してくださいました。 話はそれますが、私ども3人は実は囲碁将棋の愛好者でもあります。シアトルの日本棋院 米国西部囲碁センターの所在を調べてありましたので、まず連れて行ってもらいました。 早朝にもかかわらず、Presidentの Kirschner氏が出勤しておられ、お話を伺うことがで きました。岩本九段の功績がたたえられていることはもちろん、盤石や資料も整っており、 フロアの一角に畳の部屋もしつらえてあります。 Kirschner氏「昨年フェアモント・オリンピック・ホテルで棋聖戦(羽根・山下)のタイ トルマッチ第一局が行われたときには、この畳を運んでホテルの一室を和風に仕立て上げ たんですよ。」 氏も5段ぐらい打つとのこと。日本にも選手を引き連れて訪れたこともあるとか。一局所 望されましたが、いくら碁好きでも今は観光時間の方が貴重。丁重にお断りしました。 現地はシアトル郊外の住宅地にあり、旅行者が簡単に訪ねられる場所ではありません。現 地に詳しい方の案内なしには、場所を捜し当てることすらできなかったでしょう。 さて観光ですが、ウォーターフロントを山側から見、シアトル大学、航空博物館を見学。 午後、一日遅れで到着するU夫人を空港に出迎え、そのあとチッテンデン水門で水位差調 節と鮭の階段を楽しみ、最後にS氏の居住する優雅なマンションに寄せていただきました。 私たちのために一日を割いてくださったS氏のホスピタリティに、この場を借りて改めて 感謝申しあげます。(つづく) | |
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| ◆第2次MLB(メジャーリーグベースボール)観戦の旅−その1 ◆野口法之 ◆04年11月04日 13:41 | |
| はじめに メールマガジン「囲碁倶楽部便り」を愛読しています。伊藤さんの「辛口時評」は同世代 として共感するところ大ですし、「水口ワールド」では囲碁史の綿密な調査と考証に大い に啓発されます。 そんななかで42号に掲載された"幼稚園社会日本(その15)" <プロ野球観戦ーその1> を拝見したので、伊藤さんに小稿をお送りしたところ、「長文エッセイ」への掲載のお勧 めをいただいた次第です。 小稿は、ただいまメールマガジン「天地シニアネットワーク テーブル」に掲載中である ことをお断り申しあげます。「長文エッセイ」での内容はほぼそのままといたしますが、 一部加筆修正いたしました。 拙い「野球観戦の旅日記」が「便り」に掲載されることを光栄に思いますし、多少とも楽 しんでいただければ嬉しく思います。 (1) プロローグ 以前から関心を持っていたアメリカのメジャーリーグベースボール(MLB)をはじめて 見たのは1998年の秋口でした。日本人大リーガーでは伊良部(ヤンキース)と吉井(メ ッツ)が大活躍した年で、ニューヨークのヤンキースタジアムとシェイスタジアムとに足 を運び、3試合を見て、孤独な環境で奮戦している野茂以下の日本人選手、大リーグ選手 のパワーから観客の反応まで、大リーグ野球のすべてに大きな感銘を受けました。 帰って友人のKにそんな話をしたところ、それでは野球観戦の旅をしようではないか、と いうことになりました。考えをめぐらした結果、あまり訪れる機会のないアメリカ中部の 都市を野球に合わせて観光しよう、となり、「MLB観戦と米国中部地方都市観光の旅」 と勝手に命名しました。二人だけでは寂しいが、こんな酔狂な計画に乗ってくれる御仁が あろうとも思いませんでしたが、私の高校時代の友人、U夫妻が賛同し、4人の旅が実現 しました。 2週間弱でクリーブランド、セントルイス、カンサスシティ、アトランタとまわり、4試 合7チームを観戦し、各都市のエキスを満喫、セントルイス・カンサスシティ間は列車移 動を楽しみました。1999年6月のことです。 それから5年、Uの友人がシアトルとニューヨークに駐在中で、両都市の観光案内をして くれるがMLB観戦を兼ねてどうか、との連絡。前の旅行に味を占めていたKと私は一も 二もなく賛成。私が全般的なことと野球観戦計画、Uがホテル手配と現地の友人との連携、 Kが観光の詳細と現地の諸事項、とおよその役割が自然と決まり、かくて「第2次MLB 観戦と観光の旅」が始まりました。 (2) 計画はインターネット ニューヨークのヤンキースとメッツの二つのスタジアムへ行きたい、というKの希望、サ ンディエゴというメキシコ国境の町の雰囲気を味わいたい私、ある意味で観戦が難しいロ スアンゼルスのドジャースタジアムもこの際見ておきたい。 こうした要件を入れて、個人の都合、野球の日程、チケットの入手可能性、航空機の利用 可能性から効率的な日程を組むのはちょっとしたパズルですが、この際、ありがたいのは インターネット。居ながらにしてああでもない、こうでもない、とシミュレーションがで きます。航空機はもちろん、サンディエゴからロスアンゼルスまで利用しようかと考えて いたアムトラックの細密な時刻表がすぐ得られるのですから、便利な世の中になったもの です。 5年前、人気チームのチケットを取るのはたいへんでした。クリーブランド・インディア ンズは当時の常勝チーム、チケットはシーズン開幕前に売切れてしまいます。観光資料の 片隅で見つけた「チケットあり」という現地の代理店(ダフ屋ではない)の広告には電話 しか載っていません。いろいろな行き違いがあって、前後3晩にわたって電話し、現物は 現地のホテルに届けてくれるよう頼んでようやく成約。しかし、試合当日、ホテルのコン シェルジュでチケットを手にするまで安心できませんでした。 しかしそれも今は昔、通常のチケットはMLBの公式サイトで定価で入手できます。ただ し、人気カードは別。 私たちの全体日程が決まる前からインターネットで空席状況を見ておりますと、毎日のよ うに良い席が売れていくのがよく分かります。これは焦りますね。 日程のおおよそのメドがついたところでチケットの注文作業に入りましたが、これがけっ こう戸惑うところがありました。要件を入力すると契約条件が表示されますが、そんなに 早くは読めません。読んでいるうちに制限時間が切れてしまい、何度か同じことを繰り返 してやっと完読して成約。ところが次の球場の作業に入ると、最初の球場で入れたデータ が生きてくるため、入力データの確認もしないうちにあっという間にチケットが入手でき てしまう、という早業。 幸いにして入力ミスはありませんでしたので、問題は生じませんでしたが、もし間違いが あったらどうやって取り消すんだろう。そもそも入力確認をしないうちに成約完了という システムがどうみてもおかしい。おそらく私の操作に何らかのミスがあったのでしょう。 今後のために、インターネットの達人に教えを請いたいところです。 購入手続きには、クレディットカードの番号を入力するステップがあります。昨今のネッ トの安全問題からして勇気のいるところですが、MLB.COMのセキュリティシステムを信頼 して「えいっ」。カード番号は16桁のうち下4桁しか表示されませんし、幸いにして、今 日まで無事です。 チケットそのものは、試合の当日、"Will Call" という窓口にEメールのコピー、使 用したクレディットカード、パスポートの3点を提示して受け取ることになります。 MLBはちょうどこの時期、インターリーグ(日本では実現していませんが、セとパの公 式交流試合のようなもの)にあたるため、総じて人気が上がっています。地下鉄シリーズ として有名なニューヨークのヤンキース対メッツ戦など、私たちの訪米可能な日程の範囲 にあったのですが、諦めざるを得ません。チケットの入手できる別のカードにしました。 計画していたロスアンゼルスも同じこと。しかしここはぜひ行きたい。しかし、別の友人 が調べてくれたTIKET.MASTER の価格は想像を絶する高値です。諦めかけたところで、私 の遠縁がニューヨークで観光業を営んでいることを知り、折衝の結果私たちの許容範囲の 価格で入手できました。こちらは日本語のメールですから、コミュニケーション上の問題 はありません。 ダイヤモンド社の「地球の歩き方」シリーズのなかに「大リーグ観戦ガイド」(以下、 「MLBの歩き方」と呼びます)があり、毎年改訂出版されていますが、この本は「スグ レモノ」です。これとインターネットがあれば、大リーグ野球観戦計画はほとんどできて しまうと言って過言ではないでしょう。(つづく) | |
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| ◆中野坂上便り 〜 その十九 〜 ◆谷口 一 ◆04年10月19日 11:20 | |
| ずっと欲しかった大工道具セットをネットオークションで買った。鋸、鉋、金槌、ノミ、錐、曲尺、釘抜き、ペンチ、ニッパー、巻尺、木槌、ドライバー、ねじ釘等々17点セットだ。それらが木箱にきっちりと納まっている。 宅配便で届きその木箱を開けた時の嬉しさは、もう遠くの昔に忘れていた「少年の感激」というものだった。みぞおちの奥の方から湧いてくる声にならない声「わあっ」というものだった。一つひとつ手に持って眺めた。鉋も鋸もノミもまだ一度も木に触れたことのない鈍い輝きだ。一通り眺めたら丁寧に元通りに納めて木箱を閉じる。数分立つとまた開けてみる。眺める。飽きないのだ。それらがきっちりと納まった木箱の重さもまたいいのだ。手に持って何歩か歩いてみる。 木箱に彫刻等で名前を入れようかと思う。なんで名前を入れるのかと問う。やめた。 初仕事は、これもオークションで買った紀州のクスの一枚板、一人でやっと持ち上げることが出来る半乾燥の荒板。これを鉋でシュッツシュッツと、削り屑は花かつおと思っていたが、そんな上手くはいかない。板面がささくれ立ってすぐに断念。金槌で刃を何度も調整し、面取りだけで終わった。板をもっと乾燥しなくてはならない。 藪を歩いていて先が焦げたまっすぐの棒を見つけた。鍬の柄のようだ。捨てられて焚き火にでも投げ込まれて、燃え残ったものだろう。全体に乾いた泥も付いている。はたけば土ほこりが出る。焦げてない方も二十cmほどひびが入っている。長年鍬として使われ、さすがに強い樫でもひびを生んで用を足せなくなったのであろう。しかしこういった握りの道具は、両手で握ってみて初めて手にしっくりとくるのがわかる。たとえ先のない柄だけだとしても。 一度は藪に捨てたその棒の握りの感触を手の平が覚えている。また藪に入り拾い上げてくる。燃えて炭化した部分を鋸で切り落とす。ひびが入った部分を切り落とす。切り口は泥の付いた表面からは想像もつかないほどのきれいな白木だ。これは文字通りの拾い物だ。約二尺。 今僕は信州蓼科にいる。山梨の白州町まで車で1時間弱。ここに正心館という剣道場がある。この道場には戦国時代末期より陰陽小太刀の形が伝えられている。藤沢周平原作、山田洋次監督の映画「たそがれ清兵衛」で清兵衛が使う剣の形である。もともとは清兵衛は戸田流の小太刀の使い手ということになっているが、戸田流は江戸時代に途絶えてしまったという。映画ではこの陰陽小太刀の形である。小太刀は二尺七寸から二尺までの剣。 僕は例の棒に鉋をあてた。握りの部分は軽く、切先に向かっては丁寧に何度も鉋をあてた。重さを残すために深くは削らない。一心に。そう時間が経たずに一本の小太刀の木刀が仕上がった。これからは半分が焦げた泥だらけの棒を誰も想像できないだろう。白木の一本の木刀だ。左手の小指で握る。一度二度振り下ろしてみる。ビュッツと風を切る。握りにまた少し鉋をあてる。 こんなことは初めての経験ではない。子供頃何十本もこうやって木を削った。その頃は鎌と肥後の守(小刀)が道具のすべてだったが。下を向いてずっと木を削っていた。目を上げればいつも夕暮れだった。 信州の山中では日が落ちた瞬間、冷気に包まれる。鉋に詰まった木屑を払い、道具箱のふたを閉める。小太刀だけが夕闇に白く浮いている。 | |
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| ◆<蛭観察体験ツアーの募集> ◆長良川 ◆04年09月26日 11:41 | |
| 日本には蛭という名の付いた地名が少なくない。蛭ヶ野というのもその一つの例である。 ちなみに、蛭ヶ野は奥美濃にあり、私も一度だけ訪れたことのある大変美しいところで ある。地名になっているくらいだから、昔は蛭がたくさんいたのであろうが、今は高原 リゾート地として有名である。 蛭ヶ野に限らず、私がこのあいだ蛭の体験をした谷川岳山麓も美しいところである。 谷川温泉の奥にある大学の寮に一泊した翌朝、5時間で山頂に達するという谷川岳の登 山道の最初の部分を往復2時間の行程で、7人の仲間と森林浴をしたのであるが、その とき生まれて初めて山蛭に血を吸われるという体験をした。他の者は皆蛭にまつわりつ かれながらも誰一人として血を吸い取られた者はおらず、自分だけがなぜ足の付け根の 部分を8カ所も蛭に吸い付かれねばならなかったのか不思議でならない。自分だけが特 異体質なのか、あるいは他の者はみな運動靴なのに自分だけが本格的な登山靴をはいて いたという足下の装備の違いによるものなのか、本当の理由は定かではない。 この蛭による吸血のおかげで、両方の白い靴下が真っ赤な血染めの靴下になってしまっ たのは、見るのも恐ろしいことであった。 蛭に吸い付かれても、痛みはなく少しむずがゆいだけなので、蛭に吸い付かれているこ と自体に気がつかないくらいである。しかし、蛭が血を吸った後は、血が止めどもなく 流れ出して、2時間程は血が止まらない。どうも蛭は最初に吸い付いた時、血液を固ま らせない物質を人の体内に送り込んでいるらしい。 蛭のこの性質を利用してスイスのチバガイギーという製薬会社は、集めた蛭からこの物 質を抽出し、血液凝固防止剤を製造しているという話を、同行していた仲間の中の一人 の動物生理学者が教えてくれた。 そういえば、昔の民間療法にも、蛭を集めてきて悪い血を吸わせて病気を治すというの があった。 我々現代人も、悪い血を人に1年に1回ぐらいは蛭に吸ってもらった方がいいのではな かろうか。皆それぞれがそれなりの悪事を働いて悪い血が相当たまっているに違いない のだから。 それに加えてこのような体験をすると、気持ちいい、気持ち悪いとはどういうことか、 美しい、醜いとはどういうことかといった哲学的な考察の機会を与えてくれて、物事を 深く考えるようになれるという効用もある。 このようなことを考えると、蛭に血を吸われるという体験は、少なくとも一生に一度は しておいた方がいいということになる。 そこでこのたび、谷川岳山麓をフィールドとする蛭の観察体験ツアーを企画することに したので、皆様の参加を心より期待している。ドイツ旅行なんかよりも有意義で深くて 豊かな満足が得られること疑いなしだ。 行こう、谷川岳山麓へ!(参加人員1名で決行予定) 蛭に血を吸われて喜んでいる方へ 体験記を読ませていただき、不思議と観察体験ツアーに行ってみたい衝動に駆られまし た。蛭に血を吸われるのはあまり気持ちのいいものではないと思います。でも吸われる 人が決まっていますし、血染めの靴下も秋の紅葉に映えるのでと思います。 なお、足の付け根部分8ヵ所とありますが、足首あたりではないでしょうか。足の付け 根部分だと大変なことになります。 いずれにしても、皆それぞれそれなりの悪事を働いて悪い血が相当溜まっているという 記述は抹消していただきたい。なぜ一緒に行った方は吸われなかったか。山蛭は賢くて 知っているのです。悪事を重ねて真っ黒な血をたくさんストックしている人間を・・・ 谷川岳蛭観察ツアーに、佐藤が参加しますのでよろしくお願いします。 | |
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| ◆百聞は一見に如かず/科学の教条よりも直接体験 ◆すばる ◆04年08月29日 12:56 | |
| ロバート・ピーターソン著『体外離脱を試みる』という本があります。臨死体験 は危険ですが、平常状態のまま霊魂が離脱できるならば、何回でも試行できます。 著者は、ロバート・モンローの体外離脱の本に接し、10代後半でしたが、半信 半疑ながら、自己流にあれこれと方法を工夫して、体外離脱にチャレンジ。数年の 間に100回余の体外離脱を体験するに至りました。 その一つ一つについて、どのような状況でどのようにやってみたか、どのような ことが起きたか記録をつけて、方法を開発〜改善し、生起したことの意味の考察を 繰り返しています。 その直接体験の結果、宗教が教条主義であることは当然ながら、現代科学の教え もまた、現実を無視した教条主義に過ぎないとの反省に至っています。 私自身、仏教の教えに遠慮して、「霊魂が死後も存在するとは言いにくい」だった のですが、もう一つ、科学の教えにも遠慮して、「霊魂が存在するとは言いにくい」 の気持ちでいたのですが、ロバート・ピーターソンの素直な感想に賛同し、今後は 科学に対しても、胸を張って「霊魂は存在している」と言えるようになりました。 著者は、幼少期によく遊んだ友人に嘘つきの常習者がいて、ために何が嘘であり 何が真実であるのかの見極めを余儀なくされ、推論・考察の技を発達させます。 幼稚園時代から、童話には見向きもせず、ひたすら科学解説本や図鑑に夢中。高校 生時代はコンピュータに打ち込んで、大学の公開講座もすべて受講。大学の実習室に 入りびたりで、年齢が倍も違う大人達が、この少年に教えを乞う状態であり、ビル・ ゲイツ君のような天才少年でした。科学的・論理的思考の熟達者なので、非論理的な ことを主張するタイプではありません。 以下、体外離脱を初体験後の著者の感想を引用します。 --------------------------------------------------------------------------- 百聞は一見にしかずである。私は自分が体験したあのバイブレーションと音、 身体の自由がきかなくなったこと、青いエネルギーの輪などを信じないわけに はいかなかった。それを「閉じた目」を通して「見た」のである。 あれは幻覚でもなかったし、私の気が変になっていたのでもない。夢を見て いたのでもないし、催眠術にかかっていたのでもない。あの体験は、通常の 鮮明な意識状態のときと同じか、あるいはそれ以上にはっきりとした現実感 があった。 私が最初に考えたのは、物質界以外の世界が存在するということだった。この 考えは、それまでの科学的な信念とは真っ向から対立するものだった。 さらに、私は考えた。アインシュタインの相対性理論では、彼はエネルギーと 物質は同じだと言っている。すると、もしもある人が身体を離れて、完全に物質界 以外の世界に入ったとしたら、その人はすでに我々が知っている物質でもなければ エネルギーでもないことになる。 科学は「意識」だとか「魂」といったものに席を用意していないのだ。科学は この世には三次元の世界(それと時間)と五感があるだけだと、私に信じ込ませ てきた。他のものはみんな、迷信か幻覚かあるいは信仰のなせる業だと決めつけ てきたのだ。 前提が間違っている場合、その前提をもとにはじき出された結論はすべて間違っ ているという、論理的な事実がある。科学が前提としたものが間違っていた、 あるいは完全ではなかったとわかると、私は現代科学が結論づけた多くのこと、 あるいはすべてのこともまた、間違っているのだと推論した。 少なくとも、科学は重要な事実を無視してきている。....たった一度の体外 離脱体験が、それまでの概念をすべて吹き飛ばしてしまったのだ。体外離脱を している間、私は自分が霊的な存在であるのを見ていた、というより、私は霊魂 そのものだった。 --------------------------------------------------------------------------- 【追記】 瀬戸内寂聴さんと玄侑宗久さんの対談を読むと、天台宗と臨済宗の身であり ながら、教義の範囲を一歩踏み越えて、死後も霊魂は存在し輪廻転生すること の現実的な根拠を手に入れたがっているように、感じられます。 寂聴さんのお姉さんが逝去された時、死に目に会えず、東京から駆けつけた 寂聴さんが病室に入ると、たまたま自分一人だけ。遺体にとりすがって、涙 ながらにあれこれと語りかけ、その最後に「聞こえているなら、唇を動かして ちょうだい」と頼むと、その通り動いたのです。 寂聴さんがびっくりしていると、お姉さんの長男が病室に入ってきました。 今起きたことを教えて、今度は二人で、もういちど唇を動かすように頼むと、 またまた動きました。 ....この話を読んだ時、私は2回連続だけど、死後硬直の一種類だろうと 思っていたのですが、ロバート・ピーターソン氏の体験では、通説に反して、 霊魂として部屋の上の方を漂っている状態で、自分の眼や腕を動かせたという 報告が出てきます。 ならば、寂聴さんのお姉さんが、自分の唇を動かしてみせることもありうる わけです。 | |
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| ◆有時の哲学<自己が時間である> ◆すばる ◆04年08月22日 22:16 | |
| 道元禅師の『正法眼蔵---有時の巻』に、次のような論述があります。 A 存在がそのまま時間である。 B 世界とは、自分自身が隙間なく配列されたものである。 C 自分を配列しておいて、自分がそれを眺めている。 これが、自己が時間である、という意味である。 D 自己が時間である以上、時間はどこにも去っていかない。 自己の今この瞬間は、過去現在未来をすべて含んでいる永遠の今である。 自己が時間である、とは何のことか? 周囲との人間関係がうまくいかず、自己 という概念が崩壊してしまった場合に、<離人神経症>という病気が現れますが、 自己が時間であることの具体的意味を教えられる気がしましたので、『臨死体験 研究読本』から、以下、引用してみました。 <離人神経症の症状告白・24才女性> ------------------------------------------------------------------------- 自分というものがまるで感じられない。自分というものがなくなってしまった。 自分というものがどこか非常に遠いところに行ってしまった。いまここでこう やって話しているのは嘘の自分です。何をしても、自分がしているという感じが しない。 感情というものがいっさいなくなってしまった。嬉しくもないし悲しくもない。 私が苦しいと言っているのは苦しいという感情のことではなく、苦しみそのもの のことです。私が苦しいという感じを持っているのではなくて、苦しいという ことがあるだけ。 私のからだも、まるで自分のものでないみたい。だれかの別の人のからだを つけて歩いているみたい。物や景色を見ているとき、自分がそれを見ているの ではなくて、物や景色のほうが私の眼の中に飛びこんできて、私を奪ってしまう。 いつも周囲の世界が私の中に入りこんできて、自分のほうからそれをどうこう するということができない。 音楽を聞いても、いろいろの音が耳の中に入りこんでくるだけだし、絵を見て いても、いろいろの色や形が眼の中に入りこんでくるだけ。何の内容もないし、 何の意味も感じない。 時間の流れもひどくおかしい。時間がばらばらになってしまって、ちっとも 先へ進んで行かない。てんでばらばらでつながりのない無数の今が、今、今、 今、今、と無茶苦茶に出てくるだけで、何の規則もまとまりもない。 私の自分というものも時間といっしょで、瞬間ごとに違った自分が、何の規則 もなくてんでばらばらに出ては消えてしまうだけで、今の自分と前の自分との 間に何のつながりもない。 空間の見え方も、とてもおかしい。奥行きとか、遠さ、近さとかがなくなって、 何もかも一つの平面に並んでいるみたい。高い木を見てもちっとも高いと思わ ない。鉄のものを見ても重そうな感じがしないし、紙きれを見ても軽そうだと 思わない。 ------------------------------------------------------------------------- 【感想】自分のまわりの現実は、自己という概念を基準にして秩序化・構造化 されて、把握されていた。 時間感覚も、空間感覚も、自己概念の上に意味付けされていたとは!! | |
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| ◆光の世界には時間も空間もない ◆すばる ◆04年08月22日 12:19 | |
| 道元禅師の時間論は、この現実の世界に関する時間論だと思っているのですが、 臨死体験者が霊魂状態で体験する<光の世界>の時間空間の説明がよく似ている ので、あわせて掲示しておきます。 ◆ベバリー・ブロドスキー(ケネス・リング著『光に学ぶ』より) 「この領域全体が時間の外側にあったと思われます。 時間と空間は、私たちをこの地球につなぎとめるための幻影です。 その外では、すべては同時に現在なのです。」 ◆高木義之(石井登・著『臨死体験研究読本』より) 「ここには物質的なものは何も無い。 ここには空間もないのだ。 ここには意識だけがある。 自分の意識とは別にもうひとつ巨大な意識がある。 その意識はすべての意識の集合体のようなもので、全体意識とよんでもいい。 自分はこの全体意識の一部なのだ。 全体意識にはすべてがある。 全体意識には過去現在未来のすべての出来事、すべての記憶がある。 過去の記憶、現在の出来事だけでなく未来の記憶もある。 ここには過去現在未来という時間の流れもない。 たとえるならば、すべて現在である。 時間は意識の中に認識としてだけある。 ゼロ次元というのは空間も時間も無いという意味である。 光の世界はゼロ次元。ゼロ次元はすべての次元に含まれている。 光の世界はこのすべての場所、すべての時間に存在する。 光の世界はこの世とつながり、この世のすべてを含んでいる。」 ------------------------------------------------------------------------ 【現実の世界と光の世界は同じものである】 以下『臨死体験研究読本』から、立花隆氏によるインタビュー に答えて、レイモンドムーディ博士の言葉です。 「この世とあの世とは時間的にも空間的にもわかれているのではなく、 実はつながっているのではないか。いやもっといえば、同じ世界なの ではないか。同じ世界なのに、見え方がちがっているのではないかと 思うのです。 我々はこの世における認識が全てだという気がしていますが、そうでは ない。我々はこの世ではほとんど何も見ていないに等しい。死によって、 人間の認識能力はとてつもなく拡大し、これまで見えなかったいろんな ものが見えてくる。」 | |
| 04-0027 | |
| ◆時間は過ぎ去っていくものではない。 ◆すばる ◆04年08月21日 18:34 | |
| 道元禅師『正法眼蔵----有時の巻』は、時間についての不思議な説明が展開され ていますが、普通の説明や解釈では、とても追いつきません。ところが、臨死体験 の体験談である『未来からの生還』ダニオン・ブリンクリー著を読むと、一致する 記述が多く、参考に並べておきます。 ◆有時(うじ)の巻 A 時間は過ぎ去っていくだけのもの....という理解がほとんどだが、実は 時間は過ぎ去っていくものではない。 B 昨日は山に登った。今日は学校にいる。明日はハワイに旅行の予定。 この昨日・今日・明日という3場面は、今この一瞬の中において、 共存しており、同時に目撃できるものである。 (これを道元禅師は、経歴=きょうりゃく と名づけています) 他にも有時の巻には、興味深い論述が多いのですが、それを言うと、 更に根本的な話になって、範囲が広がるので、省略です。 ◆未来からの生還 以下の文の「できる/見える」の主語は、ブリンクリー氏です。 C 数分後にかかってくる電話の相手、内容を予告できる。 D 数日後の強盗事件や、数週間後の心臓発作を、予告できる。 (これは知人に起こる出来事の予見です) E 現時点から20年後に及んでの歴史的事件の発生を、予告できる。 ブリンクリーは1975年に落雷で臨死体験。生還後、レイモンド博士の友人 となり、1980年少し前に博士に以下を予言した。 E1 1990年湾岸戦争が勃発する。 E2 1992年に2人で赤の広場に立ち、ソ連崩壊後の惨状を見る。 なお、歴史的事件の予言は117件あり、1993年までに95件が発生した そうです。レイモンド博士は、すべての予言を克明にメモしました。 F 通りがかりの誰かに目を向けると、その人の生活場面が見える。 G レストランで周囲の客と握手する都度、その相手のここ数日の出来事や 重大な問題点が見えてしまう。 これはレイモンド博士の要請に応じて、実演。すべて的中するので、 博士も脱帽。ブリンクリーには相手の現在や過去が見えていることを 認めるに至った。 H 今いる場所での百年前の情景と人々の様子が眼前に見える。 ◆結論 J「時間は、過ぎていくもの」 というのは実は錯覚であり、 「時間は、過去も現在も未来も、同時に観ることができるもの」 が正しい。 私すばるには意味不明ですが、道元禅師の<経歴>こそが現実ということです。 | |
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| ◆死後に霊魂は存在するか? ◆すばる ◆04年08月22日 13:46 | |
| 人生と宇宙の背後にあるかのように見える<死後の世界と魂の領域>ですが、 やっと確信を抱くに至りましたので、参考までに、まとめておきます。 ------------------------------------------------------------------------- (1)仏教の結論は玉虫色だった。 仏教には3つの結論が並存していました。道理で、あれこれ本を読む たびに、結論があっちに行ったり、こっちに行ったりしたわけです。 つまり、この分野に対しての仏教の説明は、あまり頼りにならない。 結論A お釈迦様方式 = 霊魂存在の結論を出さない。 (BC 400年頃) 死後の世界は、体験も証明もできないので、肯定も否定もしない。 それより、今ここに生きている現実を、より良くすることに努めること こそが大事である。 結論B 龍樹菩薩方式 = 霊魂は存在せず、人生に目的はない。 (AD 150年頃) お釈迦様の教説を、更に論理的に進めて構築しました。因果とは原因結果 の関係ではなく、相互依存関係であると喝破しています。 相互依存と部分集合から万物ができあがっている以上、必ず変化消滅する。 従って、永遠に存続できる霊魂のようなものは、因果の法則に矛盾する。 よって、霊魂は存在しない。 (この論理をはじめて読んだ時には、ううむ、なるほどと感心しま したが、だんだんと論理のアラが見えてきました。論理的すぎる と論理的に失敗する例です。) 南方仏教(テーラワーダ仏教)は、これ。南方仏教もお釈迦様の教説から、 少しずれているわけです。 結論C 六道輪廻方式 = 霊魂が存在し、死後は六道輪廻が待っている。 (BC 200年頃〜AD 300年頃) お釈迦様の哲学だけでは、民衆に溶け込みづらかったので、ヒンズー教の 輪廻思想や多神教信仰を取り入れて、インド社会にフィットする宗教改革が 起こり、仏教が宗教に変質して、ヒンズー教の一派になった時代です。 大乗仏教経典が膨大に製作されました。 日本の大乗仏教はこの立場ですが、現代の科学的常識には対抗しづらく、 餓鬼道や畜生道のような世界は存在せず、心の状態の比喩にすぎないという 説明で逃げる場合が多いようです。 ------------------------------------------------------------------------- (2)霊魂の存在と輪廻転生を確信。 今回、前世にさかのぼる退行催眠療法を知り、霊魂の存在を確信するに 至りました。以前からの証拠2件とあわせて、証拠3件となりました。 証拠D 臨死体験には、脳内物質による幻覚では説明できない部分がある。 D1 病院3階の北側端の窓の張り出し部分に、ブルーのテニス用シューズの 片方が落ちている。小指のところがすり切れ、紐がかかとの下になって いる....と、臨死体験の患者が証言。確かにその靴が確認された。 この患者は夜、救急車で運び込まれ、チューブやワイヤーでベッドに 固定されていたので、窓の外を見ている暇はなかった。 立花隆氏は、現地でこの状況を再現したが、靴の位置は窓からは見え ない場所だった。 D2 50年来にわたって失明状態にある人が、臨死状態中に使用された 医療機器の仕様を具体的に証言。失明以前に見たことのある機器から の類推では無理。 本人が浮遊霊状態で、機器をちゃんと見た....と解釈するしかない。 いろんな本を読んだので、代表本として、 米国のレイモンド・ムーディ博士『かいまみた死後の世界』 証拠E 生まれ変わりの実例が、多数存在する。 米国のスティーヴンソン博士『前世を覚えている子どもたち』。 5才〜10才の子供達が「自分はここの家の子ではなく、本当はどこ そこの町のなんという者だ」と訴える。現実に、その町その家に行き 裏付けをとるとその通り。本人は初めて会うのに、この人は誰、あの 人は誰と、正確に識別できる。 証拠F 退行催眠による難病治療が効果を発揮している。 米国のJLホイットン博士他・著『輪廻転生』 フロイトの理論では、幼少期の心の傷が原因で、成人後の心理的病状が 発生する。催眠により幼少期体験を自覚させることで、無意識の世界に 閉じ込められていた葛藤が解消し、病気が治る。 これを、幼少期を過ぎて、更に前世にまでさかのぼる。現実に難病奇病 が完治するので、退行催眠療法が成立している。 龍樹菩薩流に因果論を言えば<結果が存在する以上、原因が存在する>。 治療効果が存在する以上、前世の体験が存在する....と言うしかない。 つまり、前世が存在し、霊魂が存在する。 無意識の世界で架空の物語をでっちあげて、それが原因で病気になった という説明では、苦しい。 ------------------------------------------------------------------------- 【感想】仏教も含めて既存の宗教では、臨死体験/生まれ変わり/超能力など の実例を、ほとんど説明できない。宗教による悟りの世界の説明は、 一面的な限界がある、ということです。 臨死体験や超能力に縁のない身では、悟り体験の達成はテーラワーダ 仏教に頼るしかありませんが、 人生観・宇宙観としては、霊魂の存在と輪廻転生を基礎に置いて、 進んで行こうと確信するに至りました。 なお、この場合の輪廻転生とは、人は必ず人に転生して、魂の向上の 修行を続けていきます。 霊魂の世界には、懲罰のような低次元の運用はないので、現世の罪業 ゆえに地獄に落ちたり、動物に生まれ変わったりは、無いそうです。 | |
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| ◆(エッセイ) ◆コスミ ◆04年08月23日 10:03 | |
| 白楽天と音楽と 音楽はいうまでもなく音の連続で構成されている。しかし音だけでなくその音と音との間つまり空白部分(休止符)がなくては成立しない。空白時間といっても全くなにもないムダな部分ではなく、そこには重要ないっぱいつまった要素がふくまれている。いや時間そのものといってもいい。 かつて西欧では「時間」の観念を音楽のリズムのうえに求めていたという学説もあるくらいだ。 しかしここでそのような哲学的な話をしようというわけではない。 私が好きな楽曲のなかに、この休止符が重要かつたいへん充実した内容をもっているものがいくつかある。そのひとつにベートーヴェンのピアノソナタ二十九番 (ハムマークラヴィア)があり、ご承知のようにこの曲は壮大な構成と深い思索をもっていて、彼の作曲のなかで最も重要なもののひとつである。 私がこの曲を初めて聞いたのはずいぶん昔、たしか上野の文化会館ができて幾らもたっていない頃だったと思う。 演奏者もこれもはっきり覚えていないが、イェルク・デームスだったかパウル・パドゥル=スコダだったろうか。いずれにせよ当時新進気鋭の若々しい演奏ぶりで、おおいに感銘を受けたものだった。 その時聞いた二十九番の第三楽章はまことにすばらしいものだった。漲る情念と深い思索が込められ、潺々と心の底に沁み込んでいったことをいまでも思い出す。 特にその楽章の最終部、力強い和音がリタルダンドで次第に長い間をおきながらポツリポツリと鳴り響き、最後の和音のあとは長い長いあいだ、もう永久に次の音は鳴らないのかと思われるほどの間をおいて、ようやく終楽章の導入部に入っていった。 その間の沈黙、聴衆の息をつめる静寂は決して内容のない空虚ではなく、あらゆる和音が鳴り響き、さまざまの色彩のイメージが浮かび、そして作曲者と演奏者の思想が伝わってくる時間である。 まさに「此ノ時声無キハ声有ルニ勝ル」の瞬間であった。 本当をいうとこの有名な白楽天の詩句が私の頭に浮かんだのは、この演奏を聞いたときだったか、あるいはこの詩を初めて読んだときこの演奏が連想されたのか、その先後は今となっては定かでない。 しかしこんなピッタリした言葉がまたとあろうか。 その後いくつか別のピアニストのコンサートやレコードでこの二十九番を聞いたが、このようなじっくりとしたテンポで弾いたものは見あたらない。たいへんこころ残りのことである。 ところでここに引いた白楽天の詩句は、おおかたのご存じのように彼の代表作の一つ「琵琶行」の中の一節である。 この有名な詩篇をいまさら私が云々することはないが、この一文の第二テーマであるので少し私の考えなど紹介しておきたい。 もちろん素人の私に唐詩の解説などする資格はないが、吉川幸次郎先生の解説 (岩波新書)をそっくりいただいて、私なりに勝手な読み下しと意訳をしてみるので、考え違いの点はどうぞご容赦ねがいたい。 この長詩の成ったいわれは白氏自身がその序文で示している。 唐朝の官僚であり詩人であった白居易(楽天)は、剛直な性格が禍いし地方事務官に左遷させられた。そこはいまの江西省九江の草深い田舎町である。ここから 「琵琶行」八十八行の長詩ははじまる。 ある日その赴任地において、旅立つ友人の送別の宴を江上の船で催したが、田舎のこととて宴を引き立てる音楽とてない。主客とも惨めな気持ちで宴をお開きにしようとしたとき、近くの船から琵琶をかき鳴らす音が聞こえてきた。二人ともはっと耳をそばだて、いったい誰が弾いているのだろうとそちらに船を引き寄せてみると、美人が一人舟の中で琵琶を抱いている。これは重畳と再び宴を始め、ぜひ一曲聞かせてほしいと千万回頼んだ後、ようやく彼女は琵琶を抱いて顔を隠しながら出てきた。 そして楽器を取り上げいよいよ一曲の演奏が始まった。以下はその音楽の描写になるが、実際の詩句を掲げて進めて行こう。 軸ヲ轉ジ絃ヲ撥イテ三兩聲 (よみ) 〔ジク〕〔ハライテサンリョウセイ〕 未ダ曲調ヲ成サザルニ先ヅ情ノ有リ 絃絃掩抑シテ聲聲ニ思イ 〔ゲンゲンエンヨク〕〔セイセイ〕 平生ノ志ヲ得ザルヲ訴ウルニ似タリ 眉ヲ低レ手ニ信セテ續續ト彈ズ 〔マユヲタレ〕〔マカセテ〕〔ゾクゾク〕 説キ盡ス心中無限ノ事 〔トキツクス〕 輕攏 慢撚 抹復挑 〔ケイロウ マン ネン マツマタチョウ〕 初メ霓裳ヲ爲シ後六幺 〔ゲイショウヲナシ〕〔ロクヨウ〕 大絃ハ曹曹トシテ急雨ノ如ク 〔ソウソウ〕 小絃ハ切切トシテ私語ノ如シ 〔セツセツ〕 曹曹ト切切錯雜ト彈ズレバ 〔サツザツ〕 大珠小珠玉盤ニ落ツ 〔ギョクバン〕 間關タル鶯語花底ニ滑リ 〔カンカン〕〔オウゴ〕 幽咽タル泉流ハ氷下ニ難ム 〔ユウイン〕〔ナヤム〕 水泉ハ冷澁シ絃絶エタルト疑ワレ 〔レイジュウ〕 絶エテ通ゼザルカト疑ウトキ聲暫シ歇ム 〔コエシバシヤム〕 別ニ幽情有リテ暗恨生ジ 〔ユウジョウ〕〔アンコン〕 此ノ時聲無キハ聲有ルニ勝ル 銀瓶乍チ破レ水漿ハ迸リ 〔ギンペイタチマチ〕〔スイショウ〕〔ホトバシリ〕 鐵騎突出シ刀鎗ハ鳴ル 〔テッキ〕〔トウソウ〕 曲終リテ撥ヲ収メ心ニ當リテ畫ク 〔バチ〕〔ムネニアタリテエガク〕 四絃一聲裂帛ノ如シ 〔シゲンイッセイ〕〔レッパク〕 まずは糸の調子あわせの二,三音 それを聞くだけでもううっとりとする 始めは秘やかなもの思い 失意の日々を訴えているかのよう 伏し目勝ちに弾きつづけるは 胸に秘める万感をものがたる いろんなテクニックを使って はじめは軽やかな舞曲を奏でている 強いひびきは夕立のよう 小さな音はささやきに似て それらが入り交じって進んで行く まるで大小の珠が宝石の皿に転がり落ち あるいは花陰の小鳥のさえずり 清水が凍って流れがゆるやかになり ついには止ってしまったかのように 楽の響きはしばらく途絶えた ああこの時ひそかに哀しみは生まれ ああこのときの静寂は何にも替えがたい と、急に銀の瓶から燦めく水が迸ばしり あるいは騎士が躍出て剣戟をならすよう そして曲は終わりバチを胸に描けば 四つの絃は絹を裂くように響き渡った 私のへたくそな訳詞ではリズムもなにも伝わってこないが、この詩をみると白楽天は音楽についてすばらしい感性と鑑賞力を持っていたことがわかる。それにこの詩篇そのものがみごとな音楽性をもっている。原詩の唐音読みは私にはまったくできないが、当然きっちりと韻を踏んでおり、きっと音楽性豊かなものに違いないだろう。 もし初めてこの「琵琶行」を知った方がいたら、ぜひ読み下し文を文字の意味を考えながら声を出して二三度詠んでみてほしい。 さて長詩はさらに続く。弾き手の女性の身の上話となり、その零落の物語に詩人は現在の我が身の境遇を重ね、感慨ひとしおである。 そこでもう一曲の所望をすると、それに応えて女性は再び琵琶をかき鳴らした。するとあたりにたむろしていた船上のひとびとは、じっと聞き入り涙しない者はなかった。そのなかで最も感涙の多かった者はもちろん詩人自身であった。 以上が「長恨歌」とならぶ白楽天の傑作「琵琶行」の概要である。 ピアノコンサートから唐詩に話は移ってしまったが、ここで再び話は第一主題に戻ると、もう一つ私にはこの「此時無声勝有声」を感じる曲がある。これもベートーヴェンの曲で「弦楽四重奏曲第一番」の第二楽章のコーダの部分である。 おしまいから九小節目、第一ヴァイオリンが上昇楽句をクレシェンドで一気に駆け上がって次に三拍分の休止符がある。これが三小節繰り返し、後は次第におさまって静かに閉じて行く。この感情が極度に高まった直後の休止、つまり無言状態は何ともいえぬ美しい感興を催し、私にとって至福の一瞬ではある。 さてここは囲碁倶楽部のページである。そこでいささか牽強付会のきらいはあるが、囲碁の話もせずばなるまい。 囲碁はもちろん「地」を争うゲームである。「地」とは空白、その空白は決して無意味の空白ではなく、味方の石に囲まれた生きた陣地である。ムダのない効果的な空白を創るには、やはりある程度美的感覚が必要であろうか。いまはやりの言葉を使えば「左脳」だけでなく「右脳」も必要というところだろう。高段者の棋譜が美しく感じられ、私などヘボのそれがゴタゴタと見苦しいのはそのためである。 とってつけたようなコーダ(結尾)をもってこの拙文をおわりとする。 | |
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| ◆前のエッセイも直ぐ見れるよう工夫して下さい ◆バニラ ◆04年08月09日 22:19 | |
| 長文エッセイは心底待望しています。どうか大勢の方貴重なエッセイを見せて下さい。 事務局にお願いですが、過去に遡って見たい時に便利なように、例えば、標題の10文字ぐらいの目次を作って戴き、それをクリックすれば直ぐ見られる様にして頂きたいです。イメージものせられように期待致します。 | |
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| ◆林海峰『システム布石中国流』での歴史 ◆すばる ◆04年08月04日 21:38 | |
| 『システム布石中国流』2002年発行で、中国流の歴史を確認してみました。 (1)中国流の配置 黒5手R-11まで ハマ 黒0目 白0目 ABCDEFGHJKLMNOPQRST .1・−−−−−−−−−−−−−−−−−・ これは、南京第2局での .2|+++++++++++++++++| 黒の配置と同一です。 .3|+++++++++++++++++| .4|++○+++++・+++++●++| .5|+++++++++++++++++| .6|+++++++++++++++++| .7|+++++++++++++++++| .8|+++++++++++++++++| .9|+++++++++++++++++| 10|++・+++++・+++++・++| 11|+++++++++++++++◆+| 12|+++++++++++++++++| 13|+++++++++++++++++| 14|+++++++++++++++++| 15|+++++++++++++++++| 16|++○+++++・+++++・++| 17|++++++++++++++●++| 18|+++++++++++++++++| 19・−−−−−−−−−−−−−−−−−・ (2)林海峰本での歴史説明 A この布石、もともとは日本でとりあげられたといわれています。 安永一氏の創案で、緑星会では昭和30年代の半ば頃(1960年か) 打たれていました。 B たまたま中国から研究のため日本にきていた棋士が、その知識を持ち 帰って中国碁界で研究されたようです。 C 1965年頃、中国で盛んに研究されました。 D 66年、島村俊廣九段を団長とする囲碁訪中団が中国を訪ねた折、 この布石が研究されていることを知り、日本に持ち帰ったのでした。 E 囲碁年鑑69年版、当時打たれた碁が100局ほどのっているのですが、 中国流は1局だけ。それほど当時はまだ興味を示す棋士が少なかったと いうことです。 F 昭和40年代後半(1970年〜75年)と思いますが、藤沢名誉棋聖 が高い中国流を打ち始めました。 黒5手Q-11まで ハマ 黒0目 白0目 ABCDEFGHJKLMNOPQRST .1・−−−−−−−−−−−−−−−−−・ .2|+++++++++++++++++| .3|+++++++++++++++++| .4|++○+++++・+++++●++| .5|+++++++++++++++++| .6|+++++++++++++++++| .7|+++++++++++++++++| .8|+++++++++++++++++| .9|+++++++++++++++++| 10|++・+++++・+++++・++| 11|++++++++++++++◆++| 12|+++++++++++++++++| 13|+++++++++++++++++| 14|+++++++++++++++++| 15|+++++++++++++++++| 16|++○+++++・+++++・++| 17|++++++++++++++●++| 18|+++++++++++++++++| 19・−−−−−−−−−−−−−−−−−・ (3)林海峰本の歴史の吟味 A 安永一氏創案? → 伝聞のみ。緑星会での棋譜の指摘がない。 B 中国から来日棋士? → 誰も来てない。62年夏の訪日団の5人が最初。 過錫生/黄永吉/張福田/陳錫明/陳祖徳。 緑星会の見学は、ない。 64年夏、2回目の訪日団6人。 陳祖徳/呉松笙/羅建文/....あと3人は? D 66年の島村訪中団6人 → 島村俊廣9段/宮本義久8段/家田隆二5段 石田芳夫4段/加藤正夫4段/武宮正樹2段 (4)結論 <陳祖徳が中国流を63年に創案した>----が事実のようです。 | |